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[陣屋・代官屋敷] 東京都に残る貴重な代官屋敷 世田谷代官屋敷(東京都世田谷区)

この記事どう? ええよ~

彦根藩井伊家領だった世田谷代官屋敷を見てきた

鉄道の日記念きっぷが連続した3日に限るという改悪で使いづらくなったので、10月はどこへも行かず、このままじゃヤバいと思って陽の光を浴びに自転車で世田谷の文化財めぐりしてきた。 総走行距離 70km くらい。ママチャリで、時速 7km くらいでトロトロと。

そんで、世田谷城址は前に来たことあるので一枚だけ写真を撮って、そのまま世田谷代官屋敷(国の重文)へ。

 世田谷代官屋敷 表門

国の重文のひとつ、表門。屋敷内側から。外側からは撮るの忘れた。ダメダメじゃねーか。

 世田谷代官屋敷 母屋

もう一つの国の重文、世田谷代官屋敷 大場家住宅母屋。木々や垣根が邪魔で、全体が撮りにくい。 建物の構造自体は豪農の家屋とそんなに変わらないのだけど、 門とか垣根とか、そういうのが武家屋敷っぽい気がする。

説明版からのうけうりすれば、 もともと大場家は後北城氏の家臣の吉良氏の家臣。 北城氏滅亡後は帰農していたのが、 江戸時代に彦根藩井伊家が世田谷領を拝領した際、代官に任命されたのだそうだ。

現存する屋敷は 1737 年と 1753 年の二度の工事で建てられたのだという。

説明版がふたつあり、一方には大場家が代官に任命されたのは 1633 とあり、 もう一方には大場家は 1739 から幕末まで代官を世襲したとある。

自信はないが、1633 ~ 1739 までは世襲ではなかったのだろう。

実際のところ、大場家母屋は典型的な関東型の豪農の家だ。門とか垣根をのぞいたら武家屋敷っぽさがあまりない。士分になり世襲が認められたので後付けで武家屋敷の体裁を整えたのが 1753 の工事だったということだろうか(憶測トーク)

 世田谷代官屋敷 井戸

井戸。置いてあった作物はカリンかな……?(農作物の知識がない現代人>自分)

奥に弓道場があるのか、袴すがたの高校生たちが集まってきていた。秋の大会かなにかだろう。 ちょっと様子を見たかったが、引率の先生らしき人がうさんくさそうに睨むのであきらめた。

 世田谷代官屋敷 母屋

二階というか中二階というか屋根裏部屋的な。下男部屋か与力部屋かな?座敷牢かもしれんけど。これはあんまり農家では見ないかな。

 世田谷代官屋敷 白州跡

白州跡。せまい。まぁ、仕事は簡易裁判所レベルだったんでしょう>代官屋敷

 世田谷代官屋敷 白州通用門

白州通用門……と書いてあったが、ようするに罪人用の不浄門とか、低い身分の人はコッチ的な門ではないかと。

 世田谷代官屋敷 母屋

 世田谷代官屋敷 母屋

 

母屋内部。小屋組み。

土間はカマドが壊れてて見るべきものもそれほどだったので写真はほとんど撮らなかった。

 世田谷代官屋敷 母屋

残念ながら土間より先に上がるのは禁止。ちぇ!ケチくさいなあ。

遠くに窓ガラスが見え、明治以降のこの屋敷の変遷も知りたかったのだけど、 そういった説明は見当たらず。

かわりに世田谷ボロ市の由来の説明板が母屋内部にあり、母屋と何の関係もないので興ざめ。

それは外に置こうよ。 世田谷区的にボロ市プッシュしたいのはわかるが。

 世田谷代官屋敷 表門

表門の板がけっこう薄い。厚さ 1cm くらい。打ちこわしがあったらすぐ破られそう。 このへんも、城門と大名屋敷の門と陣屋の門と代官屋敷の門ではグレードに差が出るわけですな。

 世田谷代官屋敷 表門

ドアスコープ(違


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