はるばる来たぜ甲良町
私的に描いている藤堂高虎と加藤清正のマンガ、 『ダブルタイガー』(ブクログのパブー)の ために、近江山崎山城を見たあと、藤堂高虎の生地、滋賀県甲良町へとやってきたのでした。 わーパチパチ。
去年だったら、藤堂高虎公生誕 450 年祭だとかでいろいろイベントもあったらしい。そうだったのか……よし、次の 500 年祭を目指そう(おい、そのとき、俺、何歳だ?)
甲良町役場前から
甲良氏の始祖、甲良宗広の像が町役場の前にあった。日光東照宮や上野の寛永寺五重塔などを手がけた甲良大工。江戸幕府作事方大棟梁に就任したのが寛永九年(1632)だというから、江戸城の作事には関わってなさそう(子孫は別として)。出世には同郷の藤堂高虎の推薦もあったのだろう。
甲良豊後守宗廣記念館なるものもあって後ろ髪はひかれるものの今回は時間が無いのでスルー。
さて、甲良町役場から南へ 300 m ほど歩くと、葛城神明社と神明の滝がある。
葛城神明社。Google Map で見ると、太神宮と書いてある。こういうのがゼンリンが無断盗用防止のために仕込んでいるトラップなのだろうかといぶかしんだ。 ちなみにすぐ近くに桂城神社があるからややこしい。
もともと、このあたりは平安だか鎌倉のころ「かつらぎ」だか「かつらき」と呼ばれていた土地らしい。城の漢字が当てられているけど、実際に桂城または葛城なる城があったかどうかはわからない(と思う)
甲良町は、せせらぎ遊園のまち 甲良
とサイトの title 属性に書くくらい、水郷推しの町らしい。そのため町内に何箇所も「○○の滝」という名の堰がある。滝というほどの高さはない。これは神明の滝から桂城の滝へつながる水路。
水郷推しのわりには、水のみ場は少なかった。流れる美しい水を見ながら喉はからっから。拷問か。
いっそ手ですくって飲もうかという気にもなったけど、農業用水だから農薬がたっぷりまじってそうだし……
桂城の滝のあたりででっかく「桃源郷」と書かれた石碑があった。このあたりのユートピアになってほしいという願いを込めて、ということらしい。水も汲めない桃源郷か……とカラの水筒を持ってうらめしい気分だった。
こちらが桂城神社。さっき、桂城という名の城があったかどうかはわからないと書いたけど、 この桂城神社のある甲良町下之郷には戦国時代、下之郷城という城があった。
こちらも名が伝わるばかりで、どんな城だったかはよくわかってないらしいのだけど、とにかくあったのだけは確からしい。 下之郷の売りなのか石碑がやたらあった。
しかしながら、ずばり「下之郷城跡」の石碑は見つけられなかった。桂城神社にあると勘違いしてたけど、あとで調べなおしたら神社からすこし離れた田畑に立っていたらしい。まぁ、それは重要な目的じゃなかったのでよしとしよう。
かわりに、そのお仲間の石碑。大字 下之郷 小字 市場に立つ石碑。
市場という下之郷城の台所
とある。つまりこの市場という地名は、お城の台所がここにあったからである……と。
いっしゅん納得しかけたが、よく考えたら台所→市場の置換はちょっと無理ないか?
下之郷に 奥の細道 奥小路
地名を城にこじつけるのあきらめて七五調でごまかしやがった!
とびだし坊や多い
滋賀県名物というが、自分が歩いた中でも甲良町はとくに多かった気がする。
もうちょっと元気良く飛び出しなさい。
こんなゲーム&ウォッチの新作がやりたい。
目的地、空き地
下之郷農事集会所。ここの前の空き地が、ここへの来訪の最大の目的地だった……のだけど、 その前にこの変なベンチには反応しておこう。
木彫りといえば、熊でしょう!的な。無理やり胴体を入れた感。
藤堂高虎の生地、甲良町だから虎でしょう!的な。熊を彫ったときの反省が活かされた感。
さて、いよいよ、目的地、「甲良町下之郷農事集会所の前の空き地」である。ダララララ……(ドラムロール)
で、出た~~~~!なにもない空き地~~~~~!!!!
さて、なぜ私がここへ来たかと言えば、この空き地に、藤堂高虎の父・藤堂虎高の住居があったと伝えられているからだ。
→近江 下之郷城/近江の城郭
こちらのサイトにそう書いてあったから、信じた。ほかにソースが見つからないのが気がかりではあるけれど、信頼のおけるサイトだし、なにより目的はないよりあった方がいい。
ところで、藤堂高虎の生地は同じ甲良町でも下之郷ではなく在士《ざいじ》にあった在士館で生まれたという。父親の住居がここにあったのならここで生まれた可能性が高いんじゃないの?と考えるのはあさはかなのか。
……通い婚だったんだろうか?(虎高は入り婿だったらしい)
歴史的遺構は何も無い、見事なまでに空き地だった。しかし胸の空き地は満足で占められた。
もう一つの目的地、在士
夏とはいえ日が落ちてきた。もう一つの目的地、在士へ急がねば。
到着。在士高虎公園。えーと、つまりこのあたりにかつて在士館なる藤堂氏の中世武家屋敷があって、高虎が生まれたってことになるのかな。
中世武家屋敷を示すような土塁だとか濠だとかの遺構は、やっぱり残ってない。 水路を見て、もしかしたら濠だった可能性はあるかもなあ、と思う程度。
藤堂高虎像。噴水の水しぶきがデジカメにかかりそうで怖い。
駒止め石。なぜかピンボケ。駒止め石の由来は見つけられなかった。そもそも説明が無かったのかもしれない。 藤堂藩で馬をつなぎとめておくのに使った石なのか、それとも高虎が馬をつないだという縁のある石なのか。はたまた突進する敵の騎馬を防いだ石なのか。よくわからない。
徳川期大坂城のために高虎が京都で切り出したものの使用されなかった残念石。11トン。
“┓”という刻印があって、これが藤堂藩を示す刻印らしいのだけど、地味すぎて言われないとわからないというか、言われても納得しがたい。風化のせいで自然にできた溝にも見える。
藤堂家の家紋入り灯篭。まぁ、遺構がないぶん頑張って藤堂家にゆかりのあるものを集めましたという感じか。
在士高虎公園からしばらく西へ行くと、八幡神社がある。 室町時代、京都の石清水八幡から分祠の際に藤堂氏の始祖の藤堂景盛《かげもり》が子孫の繁栄を願って藤を二株植えたのだそうだ。
その藤がこちらで、今でも藤の季節には藤堂氏の宗家に献花しているのだそうな。ええ話や。
で、ここの境内に、藤堂高虎生地の碑があったのだけど……
なぜか写真を撮り忘れてしまったああああああああ。
…………なんのために行ったんだか…………………………
いや、石碑なんて、たんに石に文字を刻んだだけのものにすぎない。それも明治以後か、下手したら戦後のものだ、たぶん。気にすることはない。……と、自分を偽っている。
ご子孫だろうか。
尼子館
いよいよ日も暮れてきた。時間があれば見ようと思っていた場所へ急いだ。
尼子西池跡。農業用の溜池があったようだ。尼子《あまご》。 戦国好きならなじみのある苗字だろう。
私はそんなに戦国好きというわけじゃなかったので、
尼子と聞いても
「ああ、毛利にけちょんけちょんにやられた出雲あたりの大名ね」
という認識でしかなかったけど。その尼子一族の出身地がここ、甲良町尼子なのだ。
別の言い方をすれば、歴史と伝統の国、出雲へふらっと近畿からやってきて、 たちまち勢力を伸ばして台頭して、たちまち勢力を弱めて滅亡した戦国西日本の台風の目だったのだ。 尼子一族は。
その尼子の名を冠す公民館、平成の尼子館なる施設があるという。
着いた。中性武家庭園風の、遺構でもなんでもない施設。 ちなみに公民館は閉まってた。建物の中に尼子氏に関する何かが展示されてるのかどうか、わからない。 興味があるならネットで調べてみてはどうでしょーか(興味が無かったので調べなかった人間・談)
さすがに、ベンチの置き方ひとつにも趣きというか侘び数寄が感じられる。
すみません、古代文明文字は読めなくて……
ちなみに、ここ尼子からは和同開珎よりも古い、日本最古の鋳造銭の「富本銭」が見つかっている。いまではそんな風に見えないけど、築城名人の高虎といい、甲良宗広といい、甲良町はギークの血の濃い土地だったのかもしれない。
尼子駅の噴水。なぜトナカイなのか、説明はなし。
近江鉄道尼子駅。だいぶん歩いて疲れたので電車で彦根に戻ろうと思ったのだけど、次の電車まで1時間弱くらいの待ち時間だったのでしかたなく河瀬まで歩いて戻ったのだった。
……あっ!高虎像の前でシェーするの忘れた!
甲良町の魅力
歴史のある土地でありながら歴史的遺構・建造物はあんまり残ってないのかもしれない。 だからこそせせらぎの町アピールなのだろうと思うけど、まぁ、やっぱり出来て十年や二十年では、やっぱり魅力はそんなにない。 せめて半世紀、維持できればね。その頃には風格も出てくるのだろうけど。
でも、甲良町はそういうのがなくても、ごく普通に暮らしている人々による町並みが素晴らしいと思ったのです。
お寺や神社がやたら多くて道は入り組んでて迷路のようで路地は多くて水路も多くていたるところにとびだし坊や。カオス。
良い蔵
丸窓がオシャレ。
円筒ではないけど、ここで分水されているようだった。
いや~、ほんと味わい深い良い町並み。住んでると見慣れてしまって良さに気付きにくくなるものなのだろうけど。