信長軍近江衆の中核だった山崎氏の居城。山崎山城
しつこく繰り返してますけど、私的に描いている藤堂高虎と加藤清正のマンガ、 『ダブルタイガー』を描き始めたキッカケは、 加藤清正の正室・山崎片家の娘の実家であっただろう山崎山城と、 藤堂高虎の生地の藤堂村(現・滋賀県甲良町在士)が 5km ほどしか離れてなかいことを発見したからでした。 ほぼ隣村。
この二人を幼なじみってことにしたら、同世代の築城名人の両雄って以外にはそれほど二人のからむ逸話・エピソードが少ない加藤清正と藤堂高虎のあいだに物語が築けるでこりゃウッシッシ……というわけで。
あとはまぁ、江戸城の作事などを手がけた甲良大工の発祥の地でもありますから。 行って何か発見できるかどうかはわからないけど、まぁともかく行ってみましょうかと。
まず、山崎山城へ
間違えて新快速姫路行きに乗ってしまい、能登川から戻るハメになって予定より 30 ~ 40 分遅れで河瀬駅に到着。甲良町行きのバスはしばらくない。(あとから考えたら日曜ダイヤで、予定通り着いてもやっぱりバスはなかったんじゃなかろうかと思ったが)ともかく、仕方ないので先に山崎山城へ向かった。徒歩で。
荒神山 (滋賀県) – Wikipedia 標高 262m 。山頂には近江荒神山城があった。尾根筋に支城である近江日夏城と、山崎片家の居城である山崎山城がある。車があればいっぺんに3つの中世山城を回れるわけだけど、 徒歩だし時間もないので今回は山崎山城だけ。
20年前には見なかった携帯電話の基地局だけど、なんだか昭和の頃からあったかのよう思える。 私はこれを、風景に馴染んでると思ったのだけど、景観破壊と感じる人もいるかな。 ケースバイケースだよね…林立してたり、古寺・名刹・名勝のそばにあれば、そりゃあ私ももうすこし配慮しろと思う。
ゆく雁や のび太が一羽 まじりけり
雁か鴨かそれ以外の鳥類かも、自分にはわからんのだけど。
荒神山 – 山崎山の防衛線であったであろう、宇曽川……だと思い込んでいたが、実は一本手前の安食川だった。
400 年前の当時から川の流れが変わってないとすると、二本の川が二重掘の役目を果たしたなかなかの堅城と言えなくもなさそうだけど、どうだろうね。洪水が起きると簡単に川の流れが変わっちゃう時代だし。
大好物の生活道にかかる小さな橋。
十字架をあしらった意匠が異質であることから、古田織部が考案した織部法面ブロックと呼ばれている……むろん、ウソだ。
ああ、この橋もいい……が、このへんで道を一本まちがえたことにようやく気付いた。どうりで舗装されてないと思ったんだ。ちぇっ(カートを使っていたので、未舗装だとしんどい)
山崎山。比高は約 50m 。
こんどこそ宇曽川。河岸に緑の多い気持ちの良い川。
田園地域の常として、白鷺が多かった。
また、今回たまたま回ったところだけかもしれないけど、近畿の田園地帯では関東でよくある、 スズメ避けの「スピーカーで大音量で鳴らす鉄砲の音」が聞かれなかった。いいことだ。 あれは、仕方がないのかもしれんけど、やっぱり耳障りだ。
山崎山にだいぶ近づいてきた。城址にはあんまりあってほしくない水道用の大きなタンクが二つ見える。いちおう、本丸など主要な曲輪は避けて建設されたらしいけど。
山崎山城の登城口に到着。
……だ、そうです。(←自分で説明したがらない奴)
本能寺のあと、安土にいた山崎片家があわてふためいて、この自分の居城に逃げ込んだと言われておりますな。 まー、それは山崎片家だけじゃないけど。 より正確な情報を得られる畿内にいて、自分のホームタウンにいる諸将たちでさえそんな有様だったのだから、 即座に大返しを決めた秀吉がいかに異常だったか……って、国持ち大名とそうじゃない武将を同列に考えたらだめか。
GPS のログをうpってみた。
OpenStreetMap | 2012_08_05_04_31_29.gpx のトレース
http://www.openstreetmap.org/user/MASUDA%20mitiya/traces/1292553
片道 3km 。ぜんぶで 6km か。
大きな地図を表示…
山崎山城跡の場所はここ。
山崎山城に登城
登城道。登り道なんだけど、写真はなんだか下ってるように見えるな。
それほど高くない山城だけど、景色は良い。
トンボ多数。そして、山城の常として、スズメバチの見張り番がお出迎え。いやぁぁぁ。
監視と威嚇に来たスズメバチが、数歩先の地面にピタッと止まる。引き返すわけにもいかないので一歩進む。スズメバチも一歩分あとずさって、また地面にとまる。繰り返し。ストレス半端ない。
なんとか刺されずに山頂までたどりつきました。私、これまで汚れが目立たないという理由で黒い服を買うことが多かったのですが、 山城を訪れるようになって白っぽい服を選ぶようになりました。 自分がファッションにおいて最重要視する要素が「ハチを興奮させない」って……
ガッカリ城址
さて、この山崎山城跡。山崎片家のファンというのも聞かないし、私のような特殊な事情がないかぎり城郭マニアであっても訪問優先順位の低い城址だろう。
そしてここは、残念な整備がされてしまった、『ガッカリ城址』でもあります。整備される前の様子は、以下のサイトで見られる。
近江 山崎山城/近江の城郭
http://www.oumi-castle.net/second_page/yamazakiyama/yamazakiyama.html
このサイトの写真を見る限り、整備前の山崎山城は戦国期の初期の石垣が見られる、いかにも破却された荒城といった風情のある城だったようですが……
山頂の連郭群……を縦断してしまってる謎の小径。芝生。もの凄い勢いで胸に広がる「コレジャナイ」感。
舗装……だと……?
安土城に非常に良く似た……と説明版にはあるけど、舗装と芝生のせいで「どこが?」としか思えない。逆に言えば、安土城だってこんな台無し整備される可能性があったわけだ。くわばらくわばら。
しかし空は広い。
人がいないのでこころおきなくシェー。
読めません。
読めない上に倒れて壊れてます。芝生も植えっぱなしで手入れされてないし。
ほんとにね、舗装したり芝生植えたりするお金をもうちょっとこっちに回せば……雨ざらしの木製説明版の耐用年数なんて想像つくだろ、普通。
竪堀。……と、書いてなければ気付かない程度に、私の山城を見る眼力は、まだ低い。
左上から右下にのびているのが織田信長の整備した下街道。のちの朝鮮人街道 – Wikipedia
下街道の写真もう一枚。もともと岐阜城から安土城までの街道なので、この先にあるのが安土山、観音寺山ということになる。 したがって、山崎山城は安土城の支城ということで石垣化されたらしい。
パノラマ。それほど広い曲輪ではない。山崎片家は山崎に御茶屋を設けて織田信長を接待したという。 それはこの山頂だったのかふもとの居館だったのか……高いところが好きそうな信長のことだから、あるいは山頂だったのかもしれない。
……というわけで、あんまり好ましい整備がなされた城址ではなかったけど、下街道を見下ろして当時に思いを馳せることはできた。
彦根城というトップクラスの城があり、城址の活用でそれなりの知識とノウハウを持ってなければおかしい彦根市でさえ、この有様だということは胸に刻みたい。
城に興味を持たない人たちが、よかれと思って芝生を植え、小径を作り、遺構を台無しにする。台無しにしているという意識もないし、説明しても伝わらない。
現代において城なんてなにも役に立たないし、それをそのまま残しておくなんて普通の市議会議員たちには、それこそ土地の無駄使いにしか思えないからだ。 無駄にするよりは現代的な公園に作り変えて活用しよう……その論理に抗うのは、難しい。
その論理で、明治以降あまたの遺構が失われた。残しておけば今ごろ観光資源となったはずの数々の、本物の、遺構が。
……と、愚痴を続けても仕方がないので、これから城址を整備するならこういう風にしてくれたら嬉しいな、というのを書いておこう。
- 山城なら、登城口にトイレと水のみ場が欲しい。正確に言えば水筒に水を汲める場所
- 遺構を破壊しないという前提で、駐車場があるといいよね
- 説明版は、なるだけ耐用年数の高いのを第一条件に
- 雨ざらしが普通なので、道路標識みたいなタフなのがベスト
- 地金の色をそのまま出して印字してるタイプはかっこいいけど、読めなくなってるのが多い印象、光の反射で写真に撮りづらいというデメリットもあり
- 遺構ってことを考慮した配色ならなお良い。濃い茶色の地に白というのが、読みやすく景観に馴染んでて一番好きだ
- 遺構はなるだけそのままで。危険な箇所は柵や看板で対応して欲しい。あぶないから撤去や破壊ってのはご勘弁
- 史実に基づいて忠実に復元されてたら嬉しいけど、その予算がないなら「そのまま」でいいのです
- 最悪なのは「遺構を破壊して城址に関係無いものや史実に基づかないものを作ってしまう」こと。「本物の遺構」じゃなければ魅力は無いのです
下山
ふもとの駐車場の簡易トイレ。芝生とか舗装するお金があるんだったら、もっとちゃんとしたトイレを……(まだ言ってる)
……というあたりで山崎山城を去った。さらば!