河岸段丘の城・武蔵国 滝の城を見に行きました
ママチャリで2時間くらいで行ける距離の城ということで、埼玉県所沢市の滝の城跡を見に行きました。埼玉県の指定史跡です。
JR武蔵野線の新座駅と東所沢の中間なので、電車+徒歩だとそこそこ歩くことになる。
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さて、この滝の城。15世紀後半に山内上杉氏に仕えた大石氏が、対立する扇谷上杉氏の太田氏に対抗するため築いたと言われています。
のちに川越夜戦で勝利した後北条氏が大石氏を従属させ滝の城を手に入れるわけですが、いっしょに川越城・岩槻城も手中にしたため滝の城は「境目の城」の役目が薄くなり、後北条氏の時代には「つなぎの城」として駐屯基地や休憩などに使われたのだと。
秀吉の関東侵攻では北から攻めた浅野長政勢のために一日で落城したとか。
これらの説明は滝の城神社の社務所にあった、地元保存会の説明の丸写しです。いや、実に良く出来た説明書で、A4 1枚のモノクロコピーなのだけど、立派なお城のお金だけはかかってるパンフよりよっぽど役に立ちました。
とはいえ太田氏の拠点はここより北東の川越や岩槻。南の江戸にも拠点はあったものの間に豊島氏がいるので、 ここ滝の城を太田氏が南から攻めるのは難しかったはず。
…とすると、太田氏への備えならば柳瀬川の右岸(下流に向かって右)に築いて柳瀬川を北西に備えた堀にするべきで、 左岸に城を築いて南に備える意味はないわけです。
ですから、築城はもう少し古くて山内と扇谷がいちおうは協力して、南から東にかけての沿岸系関東豪族諸氏と戦っていた頃ではないかと私見を述べておきます。
滝の城保存会はガチ勢なのか、この手のオカルト系物件はまったく解説していない。
霧吹きの城というと川越城のが有名。敵が来た時に井戸のフタを開けるとたちまち霧がたちこめ敵はあきらめて退却した。それで別名・霧隠れ城……みたいなやつ。当時の武蔵野の定番ネタ話だったんでしょうな。
石組みは残ってるけど、井戸と言われなければわからないかも…レベルので埋められていた。
河岸である南側は絶壁。竪堀があるようにも見えるが自信はない。
南面には古代の横穴墓もあるそうだが、草樹が生い茂り見つけられなかった。
本丸からも柳瀬川を渡る武蔵野線が見える。なかなかの景色だが、絶賛するほどではない。
本丸虎口。この堀に引き橋が架けられ、向かい側(本丸)には高貴な四脚門があった。防衛の要だったと言える
しかし奮戦むなしく秀吉軍に敗れ四脚門は焼失した。跡地からは鉄砲の玉や飾り金具などが発掘されたというから、 通常よりも豪華な門であったこと・ここで奮戦があったことは間違いあるまい。
謎の空白のある表示板。消えたのではなく最初から書いてないくさい。
たぶん「中ノ門」とか「一之門」などと書くつもりだったが、保存会(ガチ勢)の誰かが
「不確かなことは書くべきではない」
などと主張し、保存会も賛同して、あとから書き足せるスペースを空けて「 門跡」としたのだろうと勝手に空想している。
三の丸にある大井戸跡。石組みも残ってない。この面積だと「まいまいず井戸」だったかもしれないと思った。
北側にある物見櫓跡。南側は絶壁になっているから視界がいいが、北側は丘陵にすらなってないので物見櫓が多めだったようだ。
なお、後北条氏はこの城を入手したあと、対岸に番所を築いたとのこと。この城が北からの攻撃に致命的に弱いことはわかっていて、城が落ちたときは番所を砦として侵攻をくいとめるつもりだったんじゃないだろうか。
二の丸。現在は二の丸の半分に城山神社の社務所が立つ。件の説明書はこの社務所の前に置いてある
説明書には、二の丸に『地鎮的儀礼跡』なるものが記されていたが、私は見つけられなかった。現存してないのかもしれない。
社務所前にあった訪問者ノート。孫と祖父祖母の三人連れ。その下にエージェント。時代である。
訪問者ノートってやつからも、このお城が愛されてることのわかる。保存会の良い仕事だ。
トリカブトと間違って誤食される事件が後を絶たないので素人は手を出さない方が無難……ということを知ったのは
「ニリンソウを食用にする地域もあるらしいってね~」と葉っぱの先をわずかにかじって味見したこの日、帰宅してからだった。
あっぶねえ。
「血のでる松跡」。この看板を設置した人は、このフォントでよかったと本当にそう思ってますか?先生おこらないから言ってみなさい。
秀吉軍との合戦で城兵が何人も死んだのち、ここの松を傷つけると血のような樹液がしたたったとかなんとか。 もちろん保存会(ガチ勢)はこのような話を説明しないので、検索して見つかった説明を書いている
http://www.tokorozawa-stm.ed.jp/yanase-eh/tiiki/takinozyou/takinozyou.htm
残念ながら松の切り株すら残っていない。ただ、碑があるのみ。
東国の土の城ではもっと巨大な空掘りがゴロゴロしているが、ここだって及第点レベルで深い。
花の名前わからず。ミツバツチグリというやつに見えるがちがうかもしれない。
そしてここから、保存会の説明書が真価を発揮する。
説明板にも書いてあるが、推定外堀や推定大手口などの位置が記されているので、説明書を片手に宅地の中の痕跡を見て回れるのだ。
失礼ながらこのクラスの城をそこまで下調べして地形図を片手に見て回るほどのガチ勢ではないので、こういうのは本当にありがたい。
地図があって、ちょっと足を運べば見られるなら、そりゃあヌル者の私だって見に行きますとも。
住宅地に残る土塁。物見櫓があったらしい。この近くが推定大手口とのこと。
かすかに残る堀跡。発掘調査では後北条氏の特徴である畝堀が確認されたとのことだが、いまや草木がおいしげり視認できない。
このあたりで小雨が振り出した。予報では一日中、曇りだったはずなんだが。しばらくコンビニの軒下で雨宿り昼食をして再び滝の城公園に戻った。
もともと柳瀬川に注ぐ自然の谷川があったらしいが、現在のこれが当時の姿のままなのか、公園化に際して渓流っぽく見せるための人工的なものなのかは判別できなかった。ついでに言うと、「滝」という言葉から連想されるような落差のある部分は見当たらなかった。
……と、まあこんな感じで城の規模としてはさほどではないものの、主郭部の残存度がわりかし良いのと、なにより保存会による整備がすばらしかったのでかなり満足できました。
そして廃墟と古民家へ
さて、滝の城は埼玉県所沢市にあるわけですが、柳瀬川を県境にして対岸には東京都清瀬市となっています。 だもんで、ネットで「埼玉県の文化財」だとか「所沢市の文化財」しか調べてないと、 目と鼻の先にある清瀬市の『旧森田家住宅』に気付かないかもしれません。
ネット時代の罠でしょうか(ちがうかもしれない)
運良くそうした罠にはまらず、事前に近くに古民家があることを把握していたので、時間もあるしそこへ向かいました。
…すると、途中にツタで覆われたなかなかの廃墟があったのです。
廃墟は好きは好きだけどぞっこんというほどでもない。それを目的として出かけたりはしない。でも、あれば撮ります。
もしかしたら廃墟ではないのかもしれないが、まあ、そのへんはどうでもいい。
予想外の被写体の出現によろこびつつ、今度こそ古民家へ。
旧森田家 – 清瀬市
http://www.city.kiyose.lg.jp/s058/map/020/010/hpg000002836.html
ビニールシートの道は残念だったけど、一面にタンポポが咲いておりフワーッと多幸感につつまれた。
典型的な江戸時代後期の関東の名主の家。喰い違い四ツ間取り。ただ、特筆すべき点が一点。
「ナンド」はもちろん「ヒロマ」「ザシキ」にすら電灯を点けていない。
どこの古民家でも、そんなに明るくはしないもの少しくらいは電灯を点けてるものだ。 そうじゃないと曇りまたは雨の日に、暗くて何もわからなくなるから。資料として古民家を見にきた人は細部がわからないと困るだろう。
が、しかし清瀬市は電灯を点けない。東日本大震災以後の節電対策かどうかは不明だが、とにかく点けない。
それが良い。これこそが電気がなかった時代の屋内だ。現代人がうろたえるレベルの「昼間の闇」だ。
土間に一灯だけ、電球。これも管理員の作業用。他の部屋に電灯がないのはこのおじさんが勝手に節電してるわけではなく市のお達しで消灯してるのだそうだ(ちゃんとたずねてみた)
清瀬市の『ふせぎ大祭』で使われる藁の蛇。こいつは小蛇だそうで、大ボスはすぐ近くの円通寺にあって、16メートルもあるそうだ。
http://members2.jcom.home.ne.jp/ichikondo/05%20fusegitaisai.html
江戸時代の当時、こうして民家に飾られていたわけじゃないだろうが、円通寺のそばだから飾ってあるのだろう。
……という軽い気持ちで行ったわりに満足度の高い訪問になった滝の城跡と旧森田家住宅でした。