近世大名は城下を迷路化なんてしなかった_バナー



[城址] 天の海、雲の波、夏の草、蒼の空。但馬国 竹田城(兵庫県)

ええよ~ : 1

天空の城で有名な竹田城へ野宿込みで行った。

竹田城(兵庫県朝来市竹田)

訪問日は 2017-08-11。

天空の城 冬に見るか 夏に見るか。

と、『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』みたいな悩み方をして、数年が過ぎた。

かつては城好き以外には知られていなかったマイナー城だったが 21 世紀に入って、どメジャー城の仲間入りをした、あの、例の、天空の、雲海越しに石垣の見える、羽柴秀長が因幡攻めの拠点とした、あんまり訪問者が多いんで石垣が傷み始め、入場料をとるほどになった、とかいいながら観光客のための道路拡張をおっぱじめて文化庁が目ェつりあげて朝来市を厳重注意した、いわゆるティーエーケーエーディーエービーエービーエー、高田馬場、ちがうちがう!タケダタケダタケダー・タケダタケダタケダー・タケダターケーダー(←それは漢字ちがうほう)、ようするに竹田城。

私が城を訪問するようになって、7年目。ようやくだ。

  1. 野宿までして立雲峡に登ったけど、竹田城は雲と霧に隠れて見えなかった。
  2. 興奮しすぎて見落としもたくさん(竹田城登城編)
  3. 下山でもハードな駅裏登山道(竹田城下山編)

野宿までして立雲峡に登ったけど、竹田城は雲と霧に隠れて見えなかった。

竹田城にいつ、行くかは悩ましい問題だった。なぜなら、私が城へ行く目的は、城址を直接見ることであり、雲海は必要としていなかったからだ。雲海がよく出現するのは1月から3月にかけてだ。

もちろん、写真を撮るのは楽しいし、めったにない気象や美しい景色を撮れることは非常にうれしいことだ。が、優先順位最上位ではないのだ。

しかも、一般的には山城(土の城)は植物の枯れた冬に行けといわれる。植物が生い茂ると遺構がよく見えなくなるからだ。竹田城は石垣化された近世城郭だが、山の城でもある。植物の枯れた季節の方が、なにか発見があるかもしれない。

しかし、天空の城でもある。ぬけるような青空と言えば、やはり夏が王道であろう。冬の乾いた空も素敵だが、夏の強烈な日差し・青い空・白い雲・緑の曲輪のイメージの前に、寒々とした冬空・枯草色の曲輪の侘び寂びは、どうしてもかなわない。遠望の見事さと近景の見事さを天秤にかけるなら、私は近景なのである。

それに、日の出から日没までの時間が長い。公共交通機関で移動する私には、但馬のような(失礼ながら)交通の便のよくない所で、日中時間(=撮影可能な時間)が長いというのは、非常に大きいのだ。

というわけで、今年の夏旅行のメイン訪問地は竹田城にした。真の目的地は田和城だったけど、やはり、夏休みとって行くのだから、行ったことを自慢できる一般人にも知られた城を一か所はいれておきたかったのだ。

生野銀山スルー。日本遺産。日本史上、重要な史跡で、いつかはいかねばと思ってはいるのだけど。
JR生野駅

夜の竹田駅。風情がある。
夜の竹田駅

ここで駅泊して夜明け前から登山という考えもあったけど、おそらく駅舎を閉めるだろうと思って、予定通り、立雲峡で野宿することにした。 なので、実際に終電後、駅舎が閉まるのかどうかは未確認だ。

夕方に降った雨で路面は少し濡れていたが、すくなくとも朝まで降雨は 20% 以下の確率だった。

なぜ、野宿するのか。それは、少しでも時間を有効活用したかったからだ。翌日の正午前には竹田を発つ予定でいた。予報では、翌日に予定していた養父市大屋は夕方に雨だったので、当初の予定より、さらに早くタスクをこなしたかった。

立雲峡に登るのは、決して、雲海を狙ってのことではない。夏だから、それは最初から眼中にない。ただ、谷をはさんでの遠望が見たかった、そして撮りたかったのだ。そして、何度も前述したとおり、その希望はかなわなかった。

ヘッドライトを点灯させネックライトのように首から下げ、足元を照らして(そしてドライバーから視認しやすいようにして)、立雲峡を目指して出発。

不要な荷物は竹田駅のコインロッカーを利用した。コインロッカーについては攻城団の竹田城に写真をアップした。

  >竹田城(兵庫県朝来市)の見どころ・アクセスなど歴史観光ガイド | 攻城団
  https://kojodan.jp/castle/75/

円山川にかかる朝来橋。まーた姫路城クローンな狭間。いいかげんにしろ。
朝来橋

……という気持ちもあるが、かわいいので許そう。
朝来橋

地方の名物、フタのない側溝。うっかり足を突っ込んでしまった。水が流れていなくてよかった。
県道277 側溝にフタはない

豪雨のときに立雲峡を徒歩で目指す人は注意。ていうか豪雨の時は登山を中止しろい!

怖い。
夜の飛び出し坊や

そして県道をはしるドライバーからしたら、徒歩で立雲峡に向かう人間なんて、この看板同様に怖いだろう。

私はヘッドライトを首からネックライトのようにかけて点灯させて、右側通行していたから、対向車から気づかれないということはなかったと思う。立雲峡駐車場まで二車線だから、背後から来る車は、そこまで心配することはない。

が、側溝がフタ無しだしガードレールもないので、車が来たときはすれちがうまで(または追い抜かれるまで)歩くのをやめて、その場で停止した。安全第一。

街灯すくない。あたりまえか。このへんはもう街じゃない。
県道277 街灯少なし

立雲峡入口。これは翌日に撮った写真だけど、これだけ看板があるので、まず見落とさない。
立雲峡入口

ここから立雲峡駐車場まで舗装されてるけど、自動車はまったく見なかった。

3度ほど、犬より大きな動物が道を横断するのを目撃した。鹿だ。うん、怖い。クマはかんべんしてくれ……イノシシもノーセンキュー。

谷底から鹿の鳴き声が響いた。きょーんきょーん、きょーんきょーん。私の彼は、かきのもとー。キラリ光って勅撰歌♪

わかった。私に詩情は無い。

立雲峡専用駐車場。維持管理のため、300 円の寄付を求める募金箱があった。幸い、小銭が 170 円しかなく、私は車で来たわけじゃないので、170 円でかんべんしてもらった。誰が見てるというわけでもなく。俺が法律だー。
立雲峡駐車場 注意書き

こういうあずまやがあるのは、事前のストビュー調査でわかっていたので、ヘッドライトをランタン替わりにし、ここを今宵の宿とした。
立雲峡駐車場にて あずまや

このとき、雨こそ降っていなかったが、竹田は深い霧に包まれていた。荷物がしっとりする程度の深い霧に。

霧の中でフラッシュを焚くとこうなる。
立雲峡駐車場にて あずまや

なお、あずまやの下は拳くらいの砕石がばらまかれていた。ここで野宿するなということであろう。うん、雲海で込み合う季節に、ひとつしかないあずまやを独占するのは迷惑行為だ。

が、この日は夏で、私のほかにひとっこひとりいなかったので、心の中でごめんなさいしつつ、ビニールシートを敷いて、寝袋を敷布団にし、たっぷりと虫よけスプレーをかけ、私は翌朝の登山に備えて眠りについたのだった。

翌朝。4時。まだほのかにすらあかるくもならないうちに目を覚まし、荷物をまとめて出発した。目指すは第一展望台(約40分)

登山道はよく整備されていて登りやすく、懐中電灯とトレッキングステッキがあれば、夜登山でも難しくはなかった。
立雲峡

登山口には無料の竹杖・木杖が用意してある。あなたが自前のトレッキングステッキを持ってきていないなら、悪いことは言わん。持っていきなされ。じじいの遺言じゃ。

と、言っても、痛い目にあわないかぎり、使わないと思うけど。人間は、誰もが、想像以上に想像力を持ってない。

下山中、やっぱり杖なしで登山しようとしてる中年夫婦がいたので、
「持って行った方がいいですよー」
とアドバイスしたら、
「あい きゃんと すぴーく じゃぱにーず」
と言われた。但馬の方言むずかしい。

杖の入ってるラックを指さして
「フリー ポール」
と言ってみたけど、にっこり笑って、そのまま登って行った。但馬の方言むずかしい。

私、まえから思うんだけど、10 分くらい登ったところにも、サブの無料杖ラックを設置するべきだと思うんだよね。 そしたら、かなりの人間が使うと思う。

ところで、立雲峡はもともと但馬吉野の別名で知られる桜の名所なのだそうだ。

登山道はよく整備されてて、第3展望台・第2展望台の分岐点にも看板が出てて迷うことはない。

けど、登り始めて数メートルの所の分岐点は看板がなく、暗闇ではちょっと悩む所だった。 明るくなって見渡せるようになると、間違えるような場所ではないのだけど、暗闇では看板だけが頼りだから。

  >立雲峡 – Google マップ
  https://goo.gl/maps/j85vfw5eAKv

ストリートビューで第一展望台まで疑似登山できる。機材を背負って登った人には心から感謝。

夜がしらじらと明けてきたころ、第一展望台に到着。 立雲峡第一展望台

そこそこ、きつく、思ったよりきつくない程度の登山。比高で言えば 125m 程度の登山である。

さて。

雲海は期待していなかったけど、霧が出ていたので、
「もしかして雲海見られるんじゃねーの?うーん、ひょっとしてすごいツモ?俺、もってる?もっちゃってる?」
と、期待に胸を膨らませて、展望台に立った。

ネタバレをしているので、読者諸君は結果がわかっていると思う。そう、雲海どころか雲天・霧璧に囲まれて、竹田城は影も形も見えなかったのである。

立雲峡第一展望台から竹田城方向

五里霧中とはこのことだ。

収穫がなかったわけではない。戦国時代、やたらあちこちの城で”敵が迫ったものの霧が出て城を隠した”という逸話があるけど、それを実感することができたのだから。これは、身動きとれない。

とはいえ、何のために野宿して、登山したのかという徒労感はんぱない。
立雲峡第一展望台

霧があったので前景を入れようとしてみたり。
立雲峡第一展望台から竹田城方向

コケなど撮ってみたり。
立雲峡第一展望台にて

しばらく待てば、霧が晴れるかもと思って、朝7時までねばってみた。霧は晴れてきたけど竹田城が雲につつまれたままなのは変わらず、あきらめて下山した。

9時くらいにはピーカンの青空になったので、そこまでねばっていれば、竹田城遠望も撮れたことだろう。しかし、第一展望台到着が 5:30 。雲海や遠望が決してマストではない私が、3時間半もここで待つことはできなかった。

下山するころには霧がはれはじめ、立雲峡の奇岩・奇勝を楽しむことができた。

竜神の滝。やや、名前負け。
竜神の滝 立雲峡

あまりに岩がゴロゴロしてるので、竹田城の石垣の採石跡だろうか?と思ったが、矢穴はなかった。
岩がごろごろ 立雲峡

ここから岩を谷向こうの山頂まで運ぶのもマンパワーの無駄遣いな気がする。石材の採掘がまったくなかったわけじゃなかろうが、そもそもがこういう山なのであろう。

説明板はなかったが、ここが気に入った。倒木でできた自然のアーチ。
倒木のトンネル

倒木でできたものなので、何十年も残るものではないだろう。
倒木のトンネル

石垣もあった。句碑を立てるためのもので、明治~戦前に作られたものらしい。
句碑のある場所の石垣

第二展望台から。変わらず。
立雲峡第三展望台から竹田城方向

第三展望台から。おんなじ。
立雲峡第二展望台から竹田城方向

夜はさかんに聞こえた鹿の鳴き声も、しなくなった。
立雲峡駐車場から立雲峡入口に向かって下山途中

立雲峡入口を出て、駅へ向かっていたころ、ようやく雲の切れ間から竹田城を望むことができた。
竹田城(兵庫県朝来市竹田)

高さ的にはだいぶ低い位置からの遠望になったが、平面上の直線距離では、そんなには変わらない遠望である。

なんとか、救われたような気がした。

  八雲断つ 但馬竹田柵 朝来見に 竹田柵隠す その谷が汽を

え?この、黒い線はなんなんだって?

竹田変電所の電線だよ!!!
竹田城(兵庫県朝来市竹田)

わしゃ、この写真のために、背ェより高いカヤ・ススキの藪を突き進んで、半袖だったから両腕にリストカット痕みたいな傷ができまくったんじゃ!ほっとけ!なんかふたつの鉄塔のあいだから見える竹田城がおもしろい気がしたんじゃ!気のせいじゃったわ!くそが!

 

興奮しすぎて見落としもたくさん(竹田城登城編)

駅へ向かう途中、円山川。竹田城の防衛ラインと言うべきかどうか。
円山川

そもそも、この竹田の庄が、円山川の渓谷の河岸段丘にできた庄だ。好むと好むまいと、竹田を守るならば、この川のそばに城を築くことになる。そして、この川があるからこそ、道ができ、竹田が交通の要衝となっっていたのだ。

してみると、この川は物流の大動脈であり、北から南から敵がこの川に沿ってやってくる、侵入経路なわけだ。防衛線とは言い難い。特に、この城を押さえた羽柴勢にとっては、城の東側を流れる円山川は西から来る毛利勢に対する防衛線としては、まったく機能しない。

円山川を防衛線にするのなら立雲峡のある朝来山の尾根筋に城を築くべきであって、そうせずに奪った竹田城を石垣化して使い続けたのは
「再奪取されたらやっかいだから」
という消極的理由に他ならないと思える。

竹田駅到着。ここで天空バスの始発待ち。
竹田駅

当初の予定では、夜が明けて撮るものを撮ったら am6:00 にはさっさと下山をはじめ、 駅前の適当なコンビニで腹ごしらえをするというつもりだった。結局、立雲峡で 7:00 までねばっても、竹田城は見えなかったのだけど、ねばってよかったと思う。駅前にはコンビニなんか、なかったからだ(2017.8.11 時点で)。なお、駅から 1km 地点にローソン 和田山久世田店があった模様。

食事は立雲峡でねばってるあいだに、そういうときのための携帯食で済ませたので、まあ、いい。

ほどなく、竹田駅から城址にもっとも近い駐車場までをつなぐ天空バスがやってきた。
天空バス

ンだよバスを使ったのかよ、ラクしやがって……とお思いだろうか。しかし、私はこの日の午後、くっそやたら歩かねばならない予定だったので、体力を温存する必要があったのだ。

徒歩で登城して、当時の武士の気持ちを味わいたいというのは、城好きとして当然の態度だ。また、登山が好き、ハイキングが好きという向きもあるだろう。

が、どちらでもないなら、バスをおすすめする。なぜならしんどいからだ。少しのバス代をケチって体力と時間を消耗することをオススメはしない。山頂についたときに、へたばってしまって城鑑賞どころじゃなくなったら、本末転倒だ。

竹田城に登るには4つのルートがある。
takeda_castle_map.jpg
(c) OpenStreetMap contributors

駅裏登山道(800m)

電車で訪問する人がいちばん使うルートであろう。駅からいちばん近いので。 登りやすい登山道と書いてあるサイトもあるが、簡単に信じてはいけない。

私は今回、下山でのみこのルートを使ったものの、下山ですらけっこう体力を消耗する道だった。 トレッキングシューズで来なかったことを後悔したほどであり、トレッキングステッキを持ってきた自分をほめたくなる、そんな本格的な登山道だった。

登りやすいというのは、おそらく表米神社登山道と比較してのことだろう。

表米神社登山道(700m)

ふもとから城址入口までを最短で結ぶルート。平面地図で見ると駅裏登山道より屈曲が少ない。そうとうな急坂だろうと思われる。 ぎゃくに言えば、駅裏登山道が登りやすいというのも、たかだかその 100m 分ていどの「登りやすさ」でしかないと思われる。 私は実際には通ってないので、ここは憶測で書いている。

また、南千畳曲輪から伸びる道は下山専用で、表米神社登山道を登り切った後、追手道を北曲輪の入口まで 350m ほど歩かねばならない点も注意したい。

南登山道(2200m)

登りやすさで言えば、このルートがいちばん登りやすいにちがいない。なにせ、舗装されている。 一方通行のため、この道を車で登ることはできない。徒歩でこのルートを選ぶ人は、降りてくる車に注意が必要。

問題は距離だ。じつに 2,200m。そして、南登山道の終わりから追手門まで 700m あり、合わせて 2,900m。さらに駅から南登山道の入口までの 1,200m を足すと、4km を超えるのだ。めぼしい遺構があるわけでもなし、考えるところである。

しかし、馬にとって駅裏登山道や表米神社登山道のような傾斜のきつい道を上るのは非常に難しい。 とすると、おそらく南登山道こそが騎馬に乗るクラスの武将が使った道のひとつであろう。と思うと見ておきたい道ではある。

観音寺山登山道(900m)

竹田城の支城である竹田観音寺山城(砦)を通過するので、いちばん遺構が楽しめそうなルート。 ほかの道も竪堀などを横切っているのだけれど、植生も旺盛でいまとなっては竪堀と自然地形を判別しにくい。

竹田小学校の裏から登り、最初は急こう配だが、その後(おそらく竹田観音寺山城跡あたりから)、尾根筋の登りやすい登山ルートであるという。

ここは駅から 1,400m。地理院地図だと道が途中で消えているので、他のルートより迷いやすい可能性はある。 登りきると大手門そばに出るはずなので、駅からのトータルは 2.3km といったところ。

では、天空バスに話を戻そう。

やってきた天空バスは全面ラッピングのバスだった。すべての車両がラッピングされているわけではないらしい。 始発はラッピングだと決まっているのかどうか、そのへん、よくわからないし、調べたいとも思わない。

たまたま、ラッピングバスの写真が撮れてラッキーとは思ったが、すぐにアンラッキーだと落胆した。

なぜなら、全面ラッピングバスは景色を楽しめないからだ。
天空バスの車窓

エッフェル塔が見たくなければエッフェル塔に行けの格言と同じく、ラッピングバスは乗ってしまうとラッピングが見えなくなる。

あとはパンチ穴ごしのイライラする車窓風景という、車窓からの景色を楽しみたい私にとっての拷問の時間。

おもしろフィルターみたいな効果の写真が撮れてよかった!って思えるかボケッ
天空バスの車窓

なんで全但バスの宣伝のためにワシの観光が犠牲にならんとあかんのじゃ。クソが!

停留所竹田城跡。ここから大手門まで徒歩でゆるやかに 700m 登っていく。
天空バス停留場 竹田城跡

遺構を傷つけずバスが転回できる駐車場を作るならここって感じだったんでしょうな。配慮が行き届いてる。1980 以前なら遺構をぶっつぶして大手門そばに駐車場を作ってと思う。

駅裏登山道・観音寺山登山道は登り終えるとこの近くに出る。
竹田城 北曲輪群入口

あんまり高石垣でもないので、迫力に欠ける点は否めなかった。比較するのは野暮ではあるが、備中松山城や豊後岡城と比べて、イントロは弱いと感じた。

が、それぞれの城に、それぞれのサビの部分がある。竹田城は出だしでドンとくるタイプの城ではなく、ジワジワと興奮が高まっていって本丸で最高潮になるタイプの城だったということだ。それがわかるのは、もうしばらくあと。

大手門。さすがに、戦国末期の教科書通りの虎口。
竹田城 大手門

天空バスからはよく見えず涙をのんだ虎臥橋。
虎臥橋

このあたりで、景色に興奮してしまって、曲輪の様子や遺構を撮るのがおろそかになり、けっこうな撮り逃しをやらかしてしまった。

チェックリストは作って所持していたが、面倒になり確認しなかった。 活用されなかったチェックリスト。この失敗をやらかすのは二度目である。アホである。

北千畳曲輪からの風景。
北千畳からの景色

これ撮って満足して、北千畳曲輪そのものを撮らず、空井戸跡を見逃し、さあ次だ!と北三の丸に向かったというね。つまりは余裕がないのよね。

北千畳の横矢がかりも、下から見上げた写真しかない。
北千畳の櫓台と横矢がかり

こんな絶壁で十字射撃するメリットある?横矢掛かりを設けたというより、岩盤の都合とか出来た平削地の形を最大限に活用したってだけじゃない?などと思うのだけど、自論に説得力をもたせるための写真材料が無いんじゃね(平面図や他人の写真の引用でもいんだけどさ。気分がね)

三の丸あたりから。
北三の丸からの眺望

三の丸。奥のベンチは高倉健が座った通称『健さんベンチ』。ンモー、こういうのは撮り逃してもいいのにー。
北三の丸 健さんベンチ

健さんベンチは説明板とかがあるわけでもないので、もう、ベンチを見たら全部撮っておいて、あとで調べるくらいの感じでいいんじゃないですかね。竹田城のベンチの総数、そんなに多くなかったと思うし。

武の門。北二の丸の入口なので、本当は『弐の門』だったのに、誰かが『武の門』とまちがったんじゃないの?と疑ってる私。
武の門跡

竹田城の定番構図のひとつ。
北二の丸から南曲輪群を望む

もうね、ここでようやくキタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!ってなった。

お城写真は定番構図でええんやで。行く前に絵葉書を調べておくの大事なんやで、という。

竹田城なんて撮られつくされ。語られつくされてて、このエントリにしたって新しい情報なんかないからな!

ここまで、誰が築城したかとかそういうの、ぜんぜん書いてないしな、自分。そういうのは攻城団にまかせよう!

  >竹田城(兵庫県朝来市)の見どころ・アクセスなど歴史観光ガイド | 攻城団
  https://kojodan.jp/castle/75/

本丸や天守台を含めるのも定番構図。
北二の丸から南曲輪群と本丸を望む

このころが、だいたい 8:45 分。朝の霧と曇天が嘘だったかのように青空が広がり、夏の日差しが照りつけてきた。この時間まで立雲峡まで粘っていたら、遠望も撮れたのだろう。が、済んだことはしかたがない。

汗をふきふき、バスで登城した判断は間違ってなかったと思った。そもそも、立雲峡に登って降りたあとだったんだしな。 そんな体力モンスターじゃないよ私。

本丸。城域の中心の最高位に場所に本丸と天守台があるっつーのは、実に王道で良い。
北二の丸から見た本丸

もし天守が残ってたら、さぞや見栄えがしたことだろう。が、この空の広さも、それはそれでよい。

あいにく、これほどの高所でありながら、風はあるかないかの微風だった。そういう日もあるわね。

これやー!(立雲峡からの雲海越し眺めを除けば)竹田城でいちばん有名な構図!最高や!
天守台から南曲輪群

いまからあっこに行くぞ!行くぞ行くぞ行くぞ行くぞ!むっはーーーーーーーっ!

と、気分は南曲輪群に向かってしまった私は、天守台からの花屋敷曲輪方向を撮り忘れるという大ポカをやらかしてしまったのだった……

いや、いま、花屋敷曲輪は修繕中で立ち入りできないし、修繕が終わった何年後かに、また来るかもしれないし、やっぱり雲海が見たいから秋・冬に来ようって思うかもしれないし、今回、撮り逃したものは次のお楽しみだと思えば…………

……………………………………(無言)

そんな、旅行後の憂鬱を知る由もなくセルフィー撮ってる私。
セルフィー

下山でもハードな駅裏登山道(竹田城下山編)

NO DRONE ZONE。押韻のリズム感ある。
ドローン禁止

スマホで撮った南曲輪方面。
南曲輪方面

多少、レタッチで色を調整してみたけど、いまいち色味がピリッとしないのは治らなかった。でも、構図のおさまりはこの写真がいちばんいいんだよなー。もやもやする。

天守台からの見たところをとり忘れた花屋敷曲輪。完全に撮り忘れたわけじゃなくてよかった。
花屋敷曲輪

そういうのは攻城団にまかせよう!と書いたが、少しはお城のあらましについて書いておこうか。

竹田城がいつ築城されたかは、実はよくわかっていない。室町時代、応仁の乱の少し前。周辺地域から悪党が京都に入り込んでは略奪を繰り返していたころ。この竹田こそ但馬から播磨や丹波に入る出入り口だったため、ここに安井ノ城が築かれた。これがのちの竹田城だとされるが、私はいまいち賛同できない。丹波や山城を丹波口で守りたいのなら、円山川の西側に築城するのが常道だからだ。が、いずれにせよ、この竹田の集落のそばに城が築かれたのはまちがいないようだ。

伝承によれば、山名持豊によって築かれ、太田垣光景を初代城主にしたという。とはいえ、この時代よりけっこう前から、朝来の地は太田垣氏の所領だった。 とすれば、太田垣氏が築城して山名氏はそれを追認しただけの可能性もあろう。 あるいは、京都を守るため、山名氏が己の職務に忠実に、伝承通り、築城を太田垣氏に命じたのかもしれない。 このへんの時系列やどちらが築城の主体であったかは、いまとなってはよくわからない。

そして、応仁の乱がおきる。京都が略奪されつくされ、但馬が持てるもの、丹波が持たざる者に変わると、立場は逆になる。 丹波への進入路だった丹波口は、逆に丹波や播磨から但馬へ略奪者が入る侵入経路に変わった。 のちに竹田城主となる播磨の赤松氏が、山名氏怖れるに足らずとばかりに但馬に進出してきたのもこのころだ。

守護大名・山名氏の衰えにより、太田垣氏は朝来の地を自分で守らなければならなくなった。石垣化される前の竹田城の原型が築かれたのはこのころだろう。丹波からの敵を迎え撃つ、北曲輪群、播磨からの敵を迎え撃つ南曲輪群が造成されたと思われる。

虎臥山に築かれたため虎臥城の別名が有名であるが、実は鶴城という別名もある。北曲輪群と南曲輪群を、翼をひろげた鶴に見立てたものだ。
竹田城マップ

そうやって、頼りにならない城址である山名氏についたり離れたりしながら、太田垣氏は朝来を守ってきたわけだが、16 世紀中盤に幸運と不幸が訪れる。生野銀山が発見されたのだ。

そうでなくとも、戦国時代によって、中国山地の砂鉄の価値が上がっていた。畿内を掌握した織田政権としては、この銀山および鉄原料をなんとか掌握したい。そこで、信長は銀山は太田垣のものではなく、主筋である山名氏のものだという沙汰を出した。このとき、山名氏はすでに織田の傀儡だった。

これに納得いかない太田垣および但馬の土豪たちは、織田を敵として毛利を頼った。

苦虫をかみつぶすような思いをしたのは毛利である。なぜなら、この但馬の連中ときたら、ついこないだまで尼子と組んでいた、いわば毛利の宿敵みたいなものだからだ。といって、織田が但馬・因幡・播磨を掌握してしまったら毛利に勝ち目がなくなるのは明らかなので、支援せざるをえない。毛利にとっては、なしくずしてきに対立構造に巻き込まれた感が否めない。

こうして、織田の但馬攻略が開始されたのであるけれど、どうも、実は、詳細がよくわからない。 竹田城にしても激戦の末に羽柴秀長が落としたという話が人口に膾炙しているけれど、ソースは要注意史料で名高い武功夜話だ。なんの苦労もなく、あっさりと竹田城を手に入れたという説もないではない。

このあと、太田垣の残党が小代へ逃げ延び、タリバンやISみたいな略奪者集団と化し一揆を起こし、やれ藤堂高虎が鎮圧しただの、堀尾吉晴が九死に一生の取っ組み合いをしただの、なんだかんだ、あれやこれやと伝承かまびすしい。

これらの伝承をすべて突き合わせると、時系列もぐちゃぐちゃで、矛盾してて、どれが真でどれが偽かわからん状態なのである。

これらのことからぼんやりわかるのは、とてもじゃないが記録を残してる余裕のないカオスな状況が但馬では繰り広げられたらしい、ということ。

この但馬攻めの直前、秀吉は越前攻めの柴田勝家の支援から勝手に戦線離脱した。結果として織田軍は大敗し秀吉は謹慎をくらっていた。

とすれば、この但馬攻めは秀吉家中にとって、汚名返上どころか、結果が出せなきゃ高野山追放、郎党みな失業レベルのがけっぷちだったわけだ。

ともあれ、竹田城は石垣化され、羽柴秀長軍の出撃基地となり大いに活用されたのは確かだ。

この、くっきり浮かび上がる斜めに通った目地に、みずほ銀行並みの朝令暮改の仕様変更があったのだと思うと、涙を禁じ得ない。いつの時代も泣かされるのは技術者だ。
石垣

竹田城の石垣は穴太衆によるものとして有名だけど、いかな穴太衆とて、突貫工事では粗が目立つ。竹田城においては、かなり急いで積み上げた感じが随所に見て取れた。また、この頃は穴太衆も突出した石垣技術者ではなく、試行錯誤の時代だった。

正門。北曲輪に大手門があるのに、正門とは?
正門(南曲輪)

なぜなら、城の正門を大手門、裏門を搦手門と呼ぶようになったのは、江戸時代に入って50年くらいが過ぎてからだから。 竹田城の大手門・正門の呼称も、後世の軍学者が便宜上、つけたものだろう。
正門(南曲輪)

池袋駅の西口と東口のどっちが正門?とたずねるのが愚問であるのと同じだ。敵がどの方向から来るかわからない時代に、正門も裏門もない。
正門(南曲輪)

ちなみに、大手と搦手という言葉は平安末期からある。軍勢の前と後ろ、あるいは主力部隊と副部隊、追撃部隊と防衛部隊みたいな意味だ。城門にそれを転用するようになったのが江戸時代で、戦国時代にそのような呼び方はしていなかったという話。

大手門にも正門にも鏡石があるところを見ると、どちらも正門だったと見るべきだろう。

南千畳。
南千畳曲輪

北千畳は観音寺山登山道から、南千畳は南登山道から出撃するための、軍勢を一時的に集める勢溜まりか。してみると、今は失われているようだけど、当時は観音寺山(砦)から馬で降りられる、傾斜のゆるい道があった可能性が高い。

竹田城の遠望を魅力的なものにしてくれている一本松。
南千畳曲輪 南端の松

これよこれ。
竹田城(兵庫県朝来市竹田)

他の松にくらべて樹勢がないなとは思ったが、2017.8.28 に枯死が確認されたとのこと。なんと。

  >神戸新聞NEXT|社会|「天空の一本松」枯死、来年伐採へ 朝来・竹田城跡
  https://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201709/0010513172.shtml

2018年1月、2月の冬季閉山中に伐採予定とのこと。なにも伐採しなくてもええやな、朽ちるにまかせりゃええやん……と思うけど、倒木により観光客や石垣に被害が出るリスクを考えたら、やっぱり伐るしかないのか。

この一本松のところでふりかえると竹田城の全貌がよく見えると、案内のおじさんに教わった。
南千畳曲輪から竹田城全貌を見る

まー、案内をかねた、違反ドローンの監視なんだろうけど。毎日、暑い中、ごくろうさまだ。

南千畳からの景色。
南千畳からの眺望

南千畳から追手道へ抜ける道。道幅はせまいけど、傾斜は馬でも登れそうなゆるやかさ。
南曲輪から追手道へ出る道

やっと、石垣ではないむき出しの岩盤が見えた。やっぱり立雲峡からわざわざ石を運んだなんてことはなく、石垣の石は現地調達がほとんどだろう。
南曲輪から追手道へ出る道

駅裏登山道を下りるため、いったん北曲輪入口までもっぺん登るのこと。
駅裏登山道 竹田城側出口

予想以上にハードな山道だった。鎖場こそ無かったものの、蹴上げが 25cm ~ 30cm とかザラにあった。
駅裏登山道

下山中、4人くらいの登城客とすれちがった。全員、トレッキングポールを持たず軽装であり、暑さで死にそうな顔をしていた。さもあらん。

道はきつかったが、なかなかのキノコ天国。
駅裏登山道のキノコ

竹田城の遺構的なもの、竪堀とかを期待したのだけど、夏で草深く、私の目では見極められなかった。地図とGPSでもなけりゃ難しいといったところ。
駅裏登山道

駅裏登山道を降りきると、竹田駅の裏に出る(あたりまえー)。 駅裏登山道 竹田駅側 入口

以上で竹田城のレポートは終わりなのだけど、もう少しお付き合い願いたい。駅へ行くまでに強い感銘を受けたものがあったからだ。

竹田駅の改札は西口しかないので、駅裏登山道の登山口から駅に行くには、どうしたって播但線を横断しなきゃならない。が、跨線橋などは見当たらない。100 メートル以上先に踏切は見えるが、そこまで行くのだるい。なんとかショートカットができんものかと思うのが人情だ。

その、150m 先の踏切を使えとおっしゃる。にべもねえ。
竹田駅潜線路(※名称は便宜上、筆者によるもの)

にべもないけど、わざわざそんなことをおっしゃるということは……

あったー!道じゃー!かがまなきゃ通れないほどだけど、ともかくショートカットじゃー! 竹田駅潜線路(※名称は便宜上、筆者によるもの)

最ッ高ッ!!
竹田駅潜線路(※名称は便宜上、筆者によるもの)

JR西および朝来市的には使ってほしくない道なんだろうけど、こんな素敵な通路を見せられて、通るなってのが無理ですよ。いや、それでも立ち入り禁止と書かれて柵があれば泣く泣くあきらめますぜ。でも、それらがなくて
「頭上ご注意」
って書いてありゃ、自己責任で通ってええんやなって思いますぅー。

国鉄が糞尿を線路に垂れ流していたころは、格好の度胸試しスポットだったろう。私が幼少期に住んでいた町にも似たような場所があって、よくその度胸試しを友達とやったもんだ。
竹田駅潜線路(※名称は便宜上、筆者によるもの)

今度こそ、竹田城レポおわり。野宿までした竹田城訪問は正午前に終え、中央線で播但線で次の目的地の八鹿駅へと向かった。
竹田駅ホーム

オレンジ色のかつての中央線の車両、西日本でがんばってるんやな。


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