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「物語はなぜ楽しいのか?」の答え

恥をかくのが確定してる展開が苦手なことについて考えてみた。

アニメとかドラマにおける「恥をかくシーン」がすごく苦手:ろぼ速VIP

読んだ。

その場で恥をかくだけなら平気なんだけど、「このあと恥をかくのが確定してて視聴者はそれがわかってるけど、その登場人物は気づいてないまま物語が破局に向かってじわじわ進む」のが耐えられん。……と、はてブしたら、けっこうスターがついたので、もう少しくわしく書いてみる。

さすがにもう大人なので、テレビの前から逃げるということはなくなったけど。 具体例だと、ココリコ田中に対して浜ちゃんがキレるドッキリあったでしょ、あれとか面白いんだけど辛かった。

追記 2019-12-24:この文章を書いたのは 2013-09-11 。このとき私はまだ「共感性羞恥心」という言葉を知らなかった。 この言葉が Twitter によって広くバズったのは 2016 年だった。上記まとめスレのコメント欄においても現れておらず、2013 年の段階ではこの現象に普及した名称がついていなかったことがわかる。なお、このエントリは当初『虚構と現実、今の気分は…Docchi!?』というタイトルだったが、2019-12-24に多少、書き直してタイトルも変更した(追記ここまで)

これ、冷静に考えたら面白い現象だよね。物語の登場人物の辱めを自分が辱めを受けてるように感じちゃってる。虚構と現実の区別がついてない。

自分の知ってることと他人の知っていることはちがうのだという、自己と他者の立場の区別がつくようになるのが5歳前後らしい。

だから、このシチュで
「ああああ」
ってなるのは5歳児以下の精神年齢なのかもしれん。

しかし、だ。

物語の登場人物の辱めを自分が辱めを受けてるように感じながらも、同時に、自分は自分、登場人物は登場人物、自分の知っていることを登場人物に伝える手段はないのだとわかってるからこそ、辛いのだ。

第三者視点の情報を知っている自分はこのあと破局が来るのがわかってる。しかし、登場人物は決してそれをわかることはない。破局は逃れられない。なぜなら物語だから。……というメタ視点での現在状況をきちんと把握しているからこそ、つまりは虚構と現実の区別がついているからこそ
「ああああ」
ってなるのだ。

いわゆる、物語の感情移入というやつ。冷静に考えたら、虚構の中の登場人物が死のうが生きようが、 ラブラブになろうがふられようが、読者にゃまったく関係無い話である。
美味しい料理を食べたキャラが
「うまーい!」
と叫ぼうが、読者の腹はふくれない。味もしない。匂いもない。すべては虚構であって、現実の自分にはまったく関係無い。

まあ、物語の登場人物と同じタイミングでビクンビクンするくらいならできるか。おっと話が下世話になった失礼。

 

話を戻して。してみると、物語への感情移入は、ようするに錯覚でしかない。作家の魔法は虚構を現実と思わせるだましのテクニックだ。

我々読者は物語を楽しむとき、そこそこに虚構と現実の区別がついているし、同時に、そこそこ区別できてないのだ。物語を物語として認識しながら、同時にその場面場面を、セリフのひとつひとつを自分が言ってるように、聞いてるように、やってるように、されてるように錯覚している。

虚構と現実の区別がつかない……というと悪いことのように言われるけど、
虚構と現実の区別ができていながらできてない、並列処理のもたつきがあるからこそ、人間は物語を物語として楽しむことができるのではあるまいか。

そこに処理のもたつきがあるからこそ、この情報は整理する価値のある有用な情報だと脳が認識しているのではないか。それが「物語はなぜ楽しいのか?」の答えであるように思える。有用な情報を楽しく感じ、類似の情報を積極的に収集することは、DNAの拡散に有利に働いたはずだから。

人間が人間以上の知性へ進化して、虚構と現実を完全なマルチタスクとして独立に処理できるようになったら――処理のもたつきがなくなったら――物語は廃れてしまうのかもしれない。

ここはシェアと拡散の店だ。どんな用だい?

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このブログを書いた人間/サイト管理者

桝田道也(ますだみちや)
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