2016年に古民家の篠崎家住宅と、それが所在する杉並区立郷土博物館の常設展を見た話です。
訪問日は2016-12-10。夕暮れ時でした。蘆花恒春園を見物した帰りですね……て、その、蘆花恒春園の訪問も、ブログ記事にできてないのかー。リンク張ろうと思って、記事が無いことを知る私。
蘆花恒春園、良かったんですよ。写真も多いですし、エントリを立てるのは後日ですね。
杉並区立歴史博物館は、まあ、帰りがけの駄賃みたいなもんですね。
ここにも古民家があるので、いずれ行くリストには入れていました。が、いつでもいけそうな距離なので、かえって行けていませんでした。
ようやくの訪問というやつです。で、行ったら、古民家は普通でしたが、博物館がなかなかだったのでした。
井口家長屋門と、このあと紹介する篠崎家住宅とも、もとは茅葺屋根だったものが銅葺屋根に変更されています。住宅街なので防火対策上、しかたないやつです。
機織機。長屋門の中にあったような気がします(4年前なので、よく覚えていません)。
古民家を訪問して機織り機を見るたびに、よくこんな複雑な機械を江戸時代に作って、各家庭は使いこなしてたもんだな、と驚きます。
複雑そうに見えるだけで、実は単純なのかもしれませんが。
こんな複雑な機械が各家庭にあるほどだったのに、歯車とクランクに関しては未開もいいとこなんですよね……>江戸時代。
情報の伝播にムラがありますね。
間取りは三間取り広間型と呼ばれる形式。この形式は江戸時代中期までは一般的でした……と説明板にはあるのですが、そうだったっけな?と思ったり。
今まで見て回った東京・関東の古民家の記憶を辿ると、江戸中期には田の字型(四間取り)や喰い違い四間取りが普通に現れていたと思うのだけど……
と、いぶかしんだものの、普通に現れていたということは、逆説的に三間取り広間型も、まだまだ普通に存在していたということになりますね。なるほど、してみると勘定は合ってらァ。
とはいえ、創建時には三間取り広間型だった篠崎家母屋も、長い年月を経て増改築が施され、解体時には喰い違い四間取りになっていました。
解体時の平面図を見ると、現在の復元された篠崎家母屋にはないミソベヤやフロバが存在し、これちょっと、創建時を推定復元するより、区に寄贈された状態を修復した現状維持のほうが面白かったんじゃないかな?という気もします。
都内のほかの古民家が多く田の字型(四間取り)や喰い違い四間取りですので、三間取り広間型として復元することに意義がある、という判断だったのでしょう。それは理解できます。
あるいは、篠崎さんの子孫がミソベヤやフロバを見られたくなかったとかかもしれませんけど。
日本各地の城址や古民家園に行くと、木材をしっかりつなぎとめる江戸の大工の職人技として、「仕口」が開設されているコーナーがあったりします(※杉並区立郷土博物館には無かったように記憶しています)。
その高度な技術に感心してしまうわけですが、一方で、へっぽこ職人も「おったんやな」ということがわかると、勇気がもらえますね(にっこり)
……というのも素人である私の勝手な思い込みで、後付け固定の術ではなく、ちゃんと意味や機能があるのかもしれませんけどね。
かまど。なにかボケたいけど、あいにくまだ読んでないし、観てもいないので。
屋外には、触ってもいい民具がおいてありました。これは天秤棒と肥桶。触っていいといわれてもさあ……。
いまや日本中で撤去の進む「本を読みながら働く」二宮金次郎像。これは昭和14年に作られた像。
つまり、昭和の頃は
「仕事なんぞ本を読みながらできる程度に、少々手を抜いてもいいんだ。世の中はタイミングにC調に無責任だ」
と小学校で教えていたのですが、平成以降は
「24時間働け。風邪をひいたら風邪薬飲んで働け。昼休みと休日に勉強しろ」
と小学校で教えるようになったので、撤去されているんですね。
今のは冗談です、と書かなきゃ怖い、小心者の私です。
鍋を囲炉裏にかけてた。食べ物の匂いはしなかったけど、このあと味噌でもブチ込んだのかもしれない(私はそのときまで滞在しなかった)。
茶を出されてるところを見ると、この二人は単なる見学者ではなく、古民家もしくは博物館になにか用事があって来た客なのかしら。
この、地方の旅館にありそうなテーブルは、杉並区の農家にはちょっと、そぐわないですよね。
これは良かった。レプリカがあるなら欲しいくらい。恵比寿様と大黒様。猿楽に使ってた?単なる縁起物インテリア?どっちでしょうね。
といったところで、古民家そのものの感想としては「まあ、ふつう」であって、ちょっと印象は弱かったです。
しかし、杉並区立郷土博物館は、常設展がなかなか良かったのです。
目的は古民家だったけど、せっかくだから博物館も見ていきましょう。観覧料(100円)を払ったことだし。
上の写真のは大正時代の製品ですが、解説によると国産家電の第一号は扇風機だったんだそうです。明治時代のこと。へぇ~。
掃除機でも洗濯機でもなく扇風機こそ、我が国が輸入に頼らず自力で生産すべき、日本の家庭に必要な家電なのであーる!と判断されたのです。わかる気がしますね。家の作りやうは夏をむねとすべしの国だもの。
アクリルやプラスチックなんてまだない時代なので、ブレードも鉄。ひー、怖い。ちんちん突っ込んだらスパッとやられそう。
まあ、そんな感じで杉並区立郷土資料館の常設展は、明治~昭和の家電が妙に充実してて、そこが面白かったのです。
「文化ジャー」なる道具も展示されてて、説明文によれば魔法瓶になってるので長時間保温または保冷できるおひつとのこと。
「冷蔵庫が小さかったり、炊飯器に保温機能がなかったころに活躍しました」
と、オワコンぽく説明されているのですが、いやいやいやいや。
これ普通に、真空断熱フードコンテナとか真空断熱スープジャーとか真空断熱調理鍋とか呼ばれてるものですやん。めっさ現役バリバリ伝説。
あんかとか。大丈夫なように設計されてるんでしょうが、火のついた炭をこの入れ物にいれて、ふとんをかぶせるとか、怖くて無理すぎると感じます。
手回し洗濯機。昭和の道具ムックなんかでよく見るやつwwwww本物wwwwww
ローラー式洗濯機。まだ脱水槽すらなく、洗濯機についたローラーで洗濯物を絞って脱水する仕組み。ボタンとか割れそうな悪寒。
足踏みミシン。これより少し新し目でしたが、足踏みミシンは実家にありました。
母に言わせると、電動ミシンでもだいたいのことは出来るのだけど、ごくまれに足踏み式じゃないと難しいものがあるので、どうしても捨てられない、という話でした。
杉並区立郷土博物館のジオラマ。誰得wwwwとは思うのだけど……
高井戸宿のジオラマ。これは俺得wwwwwwwありがてえwwwwwありがてえwwwww
説明によれば、高井戸宿は甲州街道の最初の宿であったけれども、そもそも甲州街道の利用者が少なく、さらに内藤新宿が発展したので、さほど離れていない高井戸宿は素通りされることが多かったとのこと。
なので宿場町としてそれほど発展せず、半宿半農の村であり続けたわけです。で、農家はせめて旅人にウンコしてもらってそれを肥にしようと、自宅の外便所を街道沿いに作って、公衆便所にしたのだそうで。
つまり、街道沿いに、一軒ごとに公衆便所があるような状態。これは、甲州街道、くっさかったでしょうね……素通りしたくもなりますわ……因果がループしてる……
まあ、そんなところです。見ようと思っていた古民家の積みタスクを消化するためだけに行ったものの、意外や博物館の方が面白かったという杉並区立郷土博物館だったのでした。
なお、写真のファイル名がことごとく”SuginamiRekishiMuseum”になってますが、他意は無く単なる勘違いミスです。