みなもと太郎先生も訪れた、大村益次郎生誕の地の碑を見ました。
2024 年末から 2025 年始にかけて18きっぷを二枚使って連続 10 日間の旅行の2日目。最初の訪問先です。
ここをチョイスしたのは、みなもと太郎先生が訪問しているからです。言わば聖地巡礼。
引用元:みなもと太郎『風雲児たち』ワイド版(15)
私自身は、大村益次郎にそれほど思い入れはありません。
やっぱ、みなもと先生は都会育ちだからな……このレベルでもド田舎に見えたんだろうな、と思ったり思ったり。
ド田舎の定義は人によってちがいますからね。
都会しかしらない人は、車両ひとつの汽車を見てド田舎だと思うでしょうし、私なんぞは
「鉄道がある。じゃあ普通の田舎であってド田舎ではないね」
と思います。
しかし、
「舗装された道路と郵便局がある。じゃ普通の田舎であってド田舎ではないね」
という定義の人だっているでしょう。
そこにコモンセンスは無いのです。
しかし、みなもと先生が訪れた昭和末と、2024年では35年以上の差があるのですから、そこは考慮しなくてはなりません。
そこで、地理院地図の空撮写真……と思ったのですが、残念ながら 1980年代~2000年代の 30 年がスッポリ抜けています。
ぶっちゃけた話、民家はそんなに増えていません。しかし、舗装された自動車道がかなり増えています。
してみると、みなもと太郎先生は田んぼの中の舗装されてない農道を歩いて碑まで行ったわけです。
対して私は舗装された二車線道路の歩道を歩いて碑まで行きました。
鋳銭司の人口はそんなに変化してなくても、受けた印象は大きく違うでしょう。
みなもと先生が「ド田舎だ」と感じたのは、無理からぬことかと思います。
さて、変わったのは道路だけではありません。
碑から 50m ほどの場所に地域交流センターが出来ており、大村益次郎像が建ったのでした。
靖国神社の銅像より、例の頭のでかい肖像画に忠実であろうとしていました。
私は必ずシェーをするわけではなく、銅像と同じポーズというパターンもあります。
像から 50m ほど歩いて、みなもと先生がわざわざ見に来た、大村益次郎生誕宅跡の碑。
説明板。なんと蔵六さん、生まれて3年で鋳銭司村から秋穂に移ったんですって。
どーすんだ?って思いましたよ。『風雲児たち』で強烈に鋳銭司への愛を描いているのに、実は幼少期をすごした中心は鋳銭司じゃなくて秋穂だったという。
この秋穂というのは、まあ隣村みたいなもんで、鋳銭司から5kmくらい南。
しかしまー、ホームタウンより隣のちょっとだけ都会な町の方が愛着がわくってのは、思春期から青年期にかけてはあるあるですから、そういうことだと解釈しましょう。
私も学生時代、アパートは武蔵小金井や小平でしたが、愛着があるのは国分寺や吉祥寺です。
ところで、ややこしいことに、この秋穂にも「大村益次郎生誕の地碑」があります。
大村益次郎生誕地碑(藤村屋敷跡)
https://maps.app.goo.gl/aWSkzTEzJLeKp7Cz5
先ほどの説明板を信じるなら、3 歳以降に育った場所であって、生誕地を名乗るのはいかがなものかと思いますが……
バスがあるなら見に行ったかもしれませんが、無かったのであきらめました。
そうでなくても、この鋳銭司、地名からわかる通り古代の貨幣の鋳造所があった場所で、つまりヒストリック・サイトです。
鋳銭司郷土館もあり、大村益次郎の墓もあり、大村神社があり、琴子夫人旧宅跡の碑があり、* 大村益次郎夫人の愛犬 角之助の墓 * なんて史跡まであります。なんでも史跡にすればいいってもんじゃねーぞ。
それらや長沢池も見たかったのですが、まあ他にも行きたいところはあるし、18きっぷ九州路の難所・宗太郎越えのために28日のうちに佐伯につかなきゃいけなかったのであきらめました。
ここで、生めんをレンチンして塩をまぶして食べるという荒ワザを開拓して、旅行中の食事の大幅コストダウンに成功しました。
生めんというのは鮮度が重要なのか、地元企業の製品がチョイスできるのも、旅情が高まって良かったです。 まあ、そんなに地域差はなかったけど。
気持ちが大きくなって、ドケチ旅行中のはずなのに、つい買ってしまいました。おいしかった。
駅舎やトイレや跨線橋は総じて新しくてモダンデザインで、ちょっと浮いてる感じ。
もともと有人駅だったけど古い駅舎を廃して無人駅に変えたとかですかね。知らんけど。
……という感じで訪問は終わりです。まあ、碑があるだけですね(銅像にあまり興味がない奴)。
地元スーパーが良かったです。