維新と空襲を生き延びた強運の城、伊予国宇和島城を見てきた。
先に草稿としてツイッターに投げて、ブログで推敲。いずれ加筆訂正マンガ化して電子書籍にします。(追記:しました↓)
太平の世が育んだ真珠 伊予国宇和島城 – しろあるき・2 – 桝田道也 | ブクログのパブー
https://puboo.jp/book/44851
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駅を出たらすぐに城が見える宇和島よいです。歩くかバスにするか悩まずにすむから。
宇和島城は平山城だけど、同時に海に面した海城だったことがよくわかる城下
写真の邪魔だけど、手前左の民家の住民に罪はない。 藩老桑折氏武家長屋門
天守以外の遺構は実は少ない。これは当時の門ではなく移築された家老宅の門 藩老桑折氏武家長屋門
例に漏れず、宇和島城も明治維新後に多くの櫓・門が取り壊された。 大手門は維新を生き延びたものの太平洋戦争で空襲により焼失。 これらの危機を生き延びた宇和島城天守は強運の持ち主と言えるかもしれない。 受験生はあやかるといい。
瓦も桟瓦で、江戸中期以降の門だなぁ、という感じ。いや、好きですけどね、桟瓦も。
長旅で荷物が重いので、もっぱらカートにリュックを乗せて移動しているんですが。
バリアフリー化されてなかった。
現存12天守クラスだとバリアフリー化されてるだろうと思い込んだ自分がアサハカだった。
宇和島駅でパッと見回してコインロッカーを見つけられず、ないのだと思い込んだんだな。 あとで調べたらちゃんとあった。 すぐ自己判断する自分が悪い。駅員に聞こうよ。
長門丸への道も、二の丸への道も階段。長門丸の方へ進んだ。
なかなか枝振りのよい……ケヤキ?(自信なさげに)
生命パワー
建築物の残存度は低いけど、多彩な石垣が宇和島城の見どころのひとつ。
まー、16c末から続く廃城にならなかった城なら、たいがい「多彩な石垣」があるものだ。400年もありゃ、そりゃあね。
石垣黎明期。傾斜もゆるく、隅角も算木積になってない。
隅角の算木積がはじまった 16c 末~ 17c 始め。
算木積がほぼ完成した時代の。
けっこうな絶壁
長門丸から式部丸への道だったかな。
一部、修繕中。
かつて森の中に間道《はざまみち》という隠し道がいくつもあったというが、これがそのひとつなのかかどうか。さあ?
国境の長い小道を抜けると土俵だった。どっひょー(←無視してください)
第二次世界大戦中、ガダルカナルで戦死した伊予出身者を御霊を祀る南豫護国神社、の土俵だった。
土俵いいよな。土俵。
ここで子供が相撲に興じていたのも今は昔。村の横綱は、もういない。
宇和島城 立ち上り門。城の搦手。かつて7つあった城門のうち、現存する唯一の門。
見下ろした眺めが最高。門の形式は薬医門。古くは矢喰い門と言い、武家の正門だったとか。門からまっすく道が登って行くのは安土城大手道にも似てる。あんまり搦手っぽくない気がする。
かつての武器庫。今は郷土資料館。宇和島城の数少ない現存建築物のひとつ。
というか、家老宅からの移築をのぞいたら、現存する宇和島城の建物って天守と武器庫と搦手門だけ?
牛鬼は鬼太郎2期(歳がバレる」ね)でいちばん怖かったんよ。本体は不死身でどんな生物にも憑りついてそいつを牛鬼にしてしまえるとかヤバい
宇和島市は基本、牛プッシュっぽかった。マンホールのフタの模様も牛鬼だった。
山里倉庫、写真OKなのは良かったけど照明がすごく暗くて。ISO6400 でも手ブレした。でも、言われなくてもフラッシュは焚かないのが常識(文化財が傷むから)
収蔵品は升とか糸車とか民具が中心で、貴重と言えば貴重だし、急いでるなら見なくても……といったところ。牛鬼面やら戦前の写真やら、宇和島ならではの収蔵品は面白かった。
一部、修理中につき立ち入り禁止。煙硝櫓跡への道だったかな。
どうも煙硝櫓跡を見逃したようだ。ちぇっ
本丸ぅぅぅー(たるるーとっぽく)
本丸はあんまり大きくない。本丸御殿もなかったらしいけど、御台所はあったらしい。
御台所がこの位置にあったってことは、天守で頻繁に茶会だの月見だのやってたんだろう。楽しそうだな。
宇和島は島じゃないけど湾内には島がたくさん。
戦国時代には、さぞや海賊に適した湾港だったことであろう。
とりあえず、記念のシェー
この天守を建てたのは)伊達正宗の孫にあたる伊達宗利。藤堂高虎ではないのだけど、 藤堂高虎が発明したと言われる層塔型の天守。
正宗がかつての宇和島の領主だった藤堂高虎に敬意を表した……わけではないだろう。 層塔型は築城コストが安くあがるからだ。
彦根城には一歩ゆずるけど、宇和島城天守も破風の多彩さと調和が見事。
しかし特筆すべきは内部。明かり障子があり、当時は畳もしかれていた。珍しい居住性のたかい天守だったのだ。
だったら、今でも畳を敷いたらいいのに。なぜか日本の城って家具・調度品を取っ払ってしまう。逆に家具・調度品も置くとなると、ご丁寧に等身大の人形まで用意するし……。極端なんだよなあ。
板材を無駄にしないところが、産業革命以前らしくて良い。
しかし、この床板、釘頭が見えないぞ。……ひょっとして釘止めされてないのか?外すことできたりして。
……まさかねー……
「あ……」
このまま床板を外して床下がどうなっているか見たい誘惑に駆られたものの、
「天守を壊したああああああっ」
なんて誤解されて新聞沙汰になったら大変なので 1cm ほどもちあげただけでビビって元に戻した。
床板が釘止めされてないというのは、当時は結構あったんですね。そもそも釘が高価な時代でもあるし、収納のためでもあるし、脱出や隠れるため、床下のメンテナンスや床下に逃げ込んだ間者を追うためとか、理由はいろいろですが。
雰囲気はあるけど資料写真としては落第点
天守最上階からの眺望。景色が良いから、ここで過ごしたかったんだろうな>居住性の高い天守。
天守は最後に籠って戦う場所だから縁起が悪いといって、藩主に就任した一度だけしか登らないとか、なかには一度も登らなかった殿様も多いのです。姫路城天守も幕末ごろは誰も近づかず手入れされず中は暗くて……という状態だったらしい。
二階より上の床板は釘止めされてた。
けっこう小さい宇和島城天守。かわいい。
んで、宇和島城というと五角形の縄張り、いわゆる「空角の経始」。これ、完全に無視してるんじゃねえかって研究者もいるくらいで私もどちらかといえば懐疑的なんだけど、いちおう見るだけは見ておかないと。
そんなわけで五角形の掘割の一角。一周して駅へ向かったのでした。
と、ツイッターにはつぶやいたものの、よくよく調べたら、この場所はまだ堀の内側だった。 現在の宿毛街道がかつての堀だとばかり思い込んでいたのだけれど、実際の堀はもう 100 m ほど外側だったのでした。ぁぁぅぅ。
……い、いいんだ!オレ「空角の経始」しんじてねーし!ふーんだ!
電車の時間を気にするあまり、撮り逃したもの。天守の窓側に設けられた鉄砲掛け。うぐぐ……。「撮り忘れ」を経験しないお城好きなんていないだろう……と自分をなぐさめた。
撮り忘れがないよう、チェックリストまで作って行ったのに、そもそもチェックリストに入れるのを忘れた>鉄砲掛け。
おしまい。
追記:ぐるぐる回した動画を後日、作成しました↓
[動画] 宇和島城天守をハイパーラプスでぐるぐる回した動画を作ってみた
http://blog.masuseki.com/?p=151