川崎市 日本民家園に行ってきた
何年も前から行こう行こうと思いつつ、首都圏だからいつでも行けるしなー…と後回しにしてきた川崎市の日本民家園に行ってきました。
主に関東甲信越の近世民家を移築した施設ですな。東北と中部地方の古民家も少々。あと奄美/沖縄の高倉。
とりあえず正門をくぐってすぐ撮った写真。
川崎市立日本民家園
http://www.nihonminkaen.jp/
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所在地:川崎市多摩区枡形7-1-1
鈴木家。福島県の宿屋。19世紀。
原家。神奈川県。明治後期。完成まで20年くらいかけた(当時の)豪邸。写真が露出オーバーなのは、オートブラケットで撮って、一番きれいな写真を捨てていちばん細部がわかる写真を残したから。黒潰れより白トビの方が資料としては使える。まー、全部残せよって気もしますが。
原家縁側。縁側っていいなー。里と山の間に里山があるように、 屋外と屋内の間に緩衝地帯としての縁側を設けるのは日本人の知恵だったんだろう。 夏は涼しく冬は暖かい。それが縁側。
エアコン前提で考えると、壁の少ない日本家屋は効率が悪いんだろうけど。
大正時代っていいよなあ。好景気だったらしいけど、平成バブルのときとちがって、なんかゆったりした空気がある。勝手な幻想かな。
日本民家園に集められてる建物は7割以上、かやぶき屋根だけど、そうじゃないのも少しはある。これはこけら葺き。三澤家。長野県伊那市。19世紀。
三澤家のこけら葺き屋根を屋内から見たところ。ええええーっ !?。すっごい雨漏りしそうだ。すべてのこけら葺きがこうだというわけじゃなかろうが……
水車小屋。
江戸時代の日本の技術スゲー!……ってなるのが知りたかったら、2ちゃんまとめブログにその手のはいっぱいあるから、ダメダメだと思う点をひとつ。
なぜか「ねじ」の価値にまったく気付かず、自分たちで作ろうとしなかったところ。
日本民家園のどの建物を見ても、建材の固定は釘か楔ばかり。歯車とかの価値はすんなり理解して、異常ともいえるほどのカラクリを駆使した和時計や人形を開発したくせに、なぜかねじだけは
「複雑すぎるから」
生産を止めてしまった。
火縄銃には絶対必要なので西洋人に娘を差し出してまで作り方を学んだ(という巷説もある)、ねじの製法。血の滲むような努力の結果、自力で製法を編み出したという説もあり。ところが平和になると作るのを止めてしまって技術も失われてしまった。
鉄砲鍛冶師がねじの作り方を秘伝にして外に出さずにいたら、平和になって鉄砲の需要も減って、ねじを作れる人がいなくなった……という可能性もあるかもしれない。
Optio W90 には
「連続して撮影した2枚をつなぎ合わせて1枚にする」
という簡易パノラマモードがある。その場でパノラマにできるので便利な気もするが、
つなぎあわせの精度はイマイチなのであった。
江向家。富山県。18世紀。屋根の形だけでなく、「かや」や「わら」の積み方にも地域差や時代差があるんすなあ。段々にのせた萱《かや》のおりなす縞模様が素晴らしい。
便所。た、畳ッ !? こりゃあ、OBできんぞ……。って、もちろん、この厠は使用できません。(ちなみに先に挙げた原家のトイレは使用できます。朝顔は当時のものではないように見えましたが)
土間は良い……。ピンボケしてるけど、良い。
なお、貴重な古民家が傷付くおそれがあるので、建物内部では三脚使用禁止です。ポケット三脚とかならいいかもしれないけど、梁や格子にゴリラポッド巻きつけてたらやっぱり怒られると思う。
なんかお茶会やってたけど、作法も知らないし恥ずかしいから申し込まなかった。
切妻造は妻面が雨ざらしになるので、杉皮や竹で壁面を保護する……そういう家もある。しない家もある。フリーダム。
山下家。岐阜県白川郷より移築。有名な合掌造。
白川郷の合掌造が他の地域の合掌造より傾斜が急なのは、 副業として屋根裏での養蚕が白川郷で盛んだったため。 屋根裏を広くする必要があって、あの傾斜・あの高さになったわけです。
白川郷が他の豪雪地帯より抜きん出て降雪量が多いというわけではないんですね。 積雪量はピーク時で4メートル前後というから、まぁ、普通の豪雪地帯。 豪雪地域には違いないんだけど、雪対策だけならあそこまでの傾斜は必要なかった、と。
ちなみにこの旧山下家は一階がおそば屋さん、二階が企画展の展示室になってます。
たぬきそば。530 円。自家製麺ということだったけど、あんまりそば粉の比率は高くないような麺だった。古民家の中で食べられるというのと、店員のオバチャントークを堪能できると考えれば、まずまずリーズナブル。
パートとおぼしきおばちゃんたちが、ほんと接客業の基本がなってなくて、逆にそれがいい、みたいな。 呼んでも世間話に夢中で気づかないとかダンドリ悪いとかいろいろ。
おばちゃんA「いま帰った、お客さん、手にガラスの破片が刺さったって」
おばちゃんB「あらー。まあー」
おばちゃんC「でも、あたしが割ったの一週間も前よ?ガムテープでちゃんととったわよ」
おばちゃんA「残ってたのねえ」
おばちゃんB「あらー。まあー」
そういう会話を客に聞こえるような場所で大声でするなw
味はまあまあでした。
山下家二階展示室。このときやってたのは企画展「登戸の左官」
なぜか唐突に出てくる奄美/沖縄地方の高倉。沖永良部から移築したものだそうで。
小金井の「江戸東京たてもの園」にも高倉はあって、
「江戸と東京に関係ないじゃんかよー」
と思ったものでしたが。
そんなに敷地が必要なくて、毛色が変わった建物で、現地にはわりとたくさん残ってて安く購入できる……なんて理由からアクセントにちょうどいいのだろう。たぶん。
下地窓。壁土を「塗らない」ことで設ける原始的このうえない窓。 貧乏な農家だと「しかたなく」だけど、茶室だと「あえて」になりますな。 千利休の有名な待庵の窓が下地窓だったはず。
五畳間。フリーダム !!
ふっと、タイムスリップしたような気になる場所もある。
痛みやすい大棟を守るために、わざとこうして草を植えるという工夫もあるそうな。
そうめん冷食すずしいかな縁……という戯句が出てくるような季節じゃあ、なかった。
かやぶきの家屋は防虫・防カビのために定期的に囲炉裏を炊いて建物を燻さなきゃならないそうだけど、職員の人が
「この季節はいいんですが、夏は辛くて……」
と言っていた。だろうな。
来客用以外の部屋にも畳が入るようになったのは幕末になって、それも裕福な農家くらいのもの。
壁土にはこうして切ったわらを混ぜると強度が増す。 安土城を作るとき、この切りわらを用意せず領民に持ってこさせた織田信長。 意外とセコい。
三重県にあった芝居小屋。ちゃんと花道も奈落もある。
日本民家園 伝統工芸館。藍染めが出来るらしい。そうか、紺屋の瓶《かめ》は埋まってるのか。ようやく「紺屋高尾」のオチがスッキリ理解できた。いままで、瓶のうえにまたがったら危ないだろう……と釈然としないものを感じていたのだ。
地面に埋まってんなら、またがることもあろうし、映り込んだナニが見えることもあるかもしれんわな。
理由はよくわからないけど、隅の庇が邪魔だったらしい。フリーダム !!
南部の曲屋。敷地の問題か、ロングショットで撮れる場所が無かった。残念。
竹製の馬の模型。日本の馬にしては少し大きすぎるように思えたが。追記:2019 この大きさで合っていた。私が日本馬=ポニーという付け焼刃知識から、ポニーをロバくらいの大きさのように思い込んでいただけでした
南部(現在の岩手県)では馬の育成が盛んだったわけですが、寒い地域だったのですこしでも陽があたって暖かくなるように南西部分に馬屋を作ることが多かったのですね。 馬>人間くらいの勢いで。で、南西に馬屋があって、鉤型に母屋をくっつけたのがいわゆる、「南部の曲屋」。
南部に限らず、日本民家園には馬屋が屋内にある家が多いなあという印象。 柵があってヒモでつながれていて草食動物であっても、家の中に大型動物がいるのって怖い。ひ弱な現代人的な感想。
紅葉を楽しむにはまだ少し早かった。モミジと古民家、両方をフレームにおさめようとして、中途半端な写真に……嗚呼。
おしまい。