飫肥城と飫肥城下を見て回った
飫肥《おび》。読めますか?日向国飫肥藩。現在の宮崎県南部の日南市あたりにあった藩です。→飫肥藩 – Wikipedia
日南市には桝田家の先祖のお墓があるので、帰省の折に時間があれば墓参りに行ってます。
で、せっかくだから飫肥城を見ようかとも思ったわけです。いままで行ったことなかったんですね、実は。2年前まではそんなに城好きだったわけでもなく、天気が悪かったりカメラを忘れたりだったので入り口くらいまでしか行ったことがなかった。
そこで今回の帰省であらためて探訪してきた、というわけです。
飫肥城大手門(復元)。昭和の復元ではあるけど、ちゃんと木造。えらい。
ただし飫肥城そのものは明治以降、その貴重な南九州型群郭式縄張りの大部分が開発によって失われてしまったとのこと。
飫肥城 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AB%E8%82%A5%E5%9F%8E
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所在地:宮崎県日南市飫肥10丁目1-2
飫肥城石垣。飫肥は江戸時代に三度の大地震に見舞われ石垣も崩壊と修復を繰り返した。 そのため江戸時代の石垣の変遷を知る上で飫肥城は貴重な城だという。
天守や二重櫓・三重櫓のような派手な建物はないものの、塀なんか整備され具合はなかなかのもの。
三度の地震で地割れが起こったので、伊東氏は本丸を山頂からここへ移した。 いまはその場所に飫肥小学校が建っている。
旧本丸へと続く登竜門。
んで、その、いまは何もない旧本丸が最高だったのですよ。
すばらしい。落ち着く。なごむ。そういや子供のころから雑木林を一人でさまようのが好きだった。
飫肥杉は江戸中期以降、飫肥藩の主要な産物だったとかなんとか。
飫肥の飫とは、飽きるほど食べ物があるという意味。それに肥という字がつくのだから、どれだけ豊かな土地だったかがうかがえる。
この地を巡る伊東氏と島津氏の戦争は 103 年にも及び、飫肥城の説明版を鵜呑みにすれば日本でもっとも長い戦争になるそうだ。
油津という良港があり、扇状台地がひろがり、良質な木材の取れる土地。 いかにのんきな宮崎県人でも、そりゃあ必死になるってものだろう。
旧本丸の土塁。シラスを含んだ土の急勾配っぷりがなかなか見事。
大手門枡形の、ちょっとわかりにくい通り道。挟撃用の通路なのか、あるいは引っ掛け用のダミー通路なのか。
枡形内へ向けられた矢狭間。こわいこわい。
あきらかにあとから修復もしくは増築したのがわかる石垣。
松尾の丸御殿。年末なので、これらの建物は閉まっていて入城できなかった。
飫肥城下町
これまた、ついでに観光。
油津赤レンガ館。明治~大正期に倉庫だった建物。この日は年末なので休館。中には入れなかった。
手押しポンプは見かけたら必ず写真に撮っている。
お地蔵さんであって、黒い三連星ではない。
コカコーラの景観への配慮はもっと評価されるべき。
旧河野家母屋…だったかな。
杉本金物店。年期の入った建物だけど、今でも営業中だそうな。(この日は閉まっていた)
小村寿太郎の墓。ポーツマス条約の人ですな。
1905年(明治38年)9月5日15時47分に、アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋によって、アメリカ合衆国ニューハンプシャー州ポーツマス近郊のメイン州にあるポーツマス海軍造船所において、日本全権小村寿太郎とロシア全権セルゲイ・ウィッテの間で調印された。
ん????ニューハンプシャー州ポーツマス近郊のメイン州にあるポーツマス海軍造船所????
んー、ああ……千葉にある東京ディズニーランドみたいなもんか(ひどい理解のしかた)
飫肥にはもっとたくさん歴史的建造物が残ってるのですが、
時間も押してたので後ろ髪ひかれつつ後にしました。
前ブログのコメント欄から転載
ゆーじ 本丸の杉林、すごく雰囲気がいいですね。
十字になった影が一体どうやってできたのか気になる。
実にいい感じの城ですねえ。
そして地蔵三連星(^_^)。オルテガ、マッシュ、誰だっけ。
桝田道也 そう言われたら不思議。
他の写真を見て判明。
http://www.masuseki.com/photo/seeing/10_Kyushu/Miyazaki/Castle_Obi/obi-castle_023.jpg
柵の影でした。どっとはらい。