2016-11-03 に再訪したので、追記しました。
内部公開の日だったので正福寺千体地蔵堂へ再訪した(ページ内ジャンプ)
国宝・正福寺千体地蔵堂に行ってきた。ご開帳でもなんでもない日に
訪問日:2010-11-28
桧皮葺きの資料写真が欲しいと思って、検索して、正福寺が桧皮葺らしいと勘違いして(間違ってた。別の正福寺と混同したか、検索結果を見まちがえたらしい)、ママチャリ漕いで行ってきました。片道 20km くらい。
途中、野火止用水路にぶつかって、すごくなごんだ。 長いこと小平に住んでたからかな。
んで、到着。国宝・正福寺千体地蔵堂。
こけら葺きだった…………。
>正福寺 (東村山市) – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E7%A6%8F%E5%AF%BA_(%E6%9D%B1%E6%9D%91%E5%B1%B1%E5%B8%82)
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所在地:東京都東村山市野口町4-6-1
こんな丁寧なこけら葺きを見るの、はじめてかも……。
でも、1933年(昭和8年)の解体修理に際して建築当初のこけら葺きに戻された
ってことなんで、創建時にここまで丁寧なこけら葺きだったかどうかあやしいもんだ。
いや、きっと忠実に再現されてるはずさ!戦前の文化庁を信じよう。
追記:2014-02-04 その後に読んだ本によれば、江戸時代に茅《かや》葺きにされたらしい。その後、昭和に当時の文化庁の職員が訪れるまで、埋もれた小さな寺も同然の状態だったという。
それで創建当初のこけら葺きの屋根に戻されたのはいいけど、ついでに火灯窓も増やされたりしたそうで、そういうのを聞くと(文献に忠実な修復だったかもしれないけれど)江戸時代から続く部分を現状維持っていう方向は軽視されたみたいだ。
いかにも、資料として撮ってます的な……。構図もくそもない。
基壇に、大谷石や笏谷石に似た、軽石凝灰岩が見える。あるいは、実際に大谷石かもしれない。
懸魚。
軒隅。隅軒だっけ?どっちでもいいんだっけ?
墨が流れ落ちてて、うっすらとしたレリーフだけ、目を凝らせば読める。渋い。でも書き直して欲しい。
文化財ウォークかなんかで、急に十数人訪れたりはしてたが、基本的には常時3~4人の境内。私ひとりになることも。
人目を気にせずシェーができるってもんよ。
地蔵堂の中に本尊があり、納められた何千体もの小さな木仏があるらしい。 内部も見なければ国宝の国宝たる部分を完全に味わえまい……とは思うのだけど、 公開は年に数回で、この日はもちろん非公開の日だったのでした。
行き当たりばったりで生きてると、そんなもんだ。
これはお堂の外に陳列されてた、おそらく近年に奉納された木仏たち。
なんとなく雰囲気があるように思えてしまう、ごまかしマクロの術。
追記:2014-02-04 その昔、近隣の住民が病気になった際に、お寺から仏像を借りて帰り、病気が治ったらお礼に新しい仏像を一体添えて返却したのが始まりだという。それ以来、お礼の仏像は増えつづけお堂に所狭しと並べられていった。昭和初期に、何も知らずにこのお堂を見つけた文化庁職員の驚きと感動はどれほどのものだったろうか。
お寺の本堂か、あるいは北条家の屋敷で使われてたのかわからないけど、でかい鬼瓦。
マスターソード抜いた直後(うそ)
それほど歴史の無さそうな石仏も紅葉効果でかっこよさ 30% アップ。
正福寺山門。国宝ではないが、市の指定有形民俗文化財。
貞和《にょうわ》の板碑。都内最大の板碑だそうな。市の指定有形民俗文化財。
紅葉狩りに訪れる人はいなかったけど、私はちょっぴり堪能できた。
墓地と遊園地。死と生。静と動。老と児。われ泣きぬれず、かにと戯れず。
内部公開の日だったので正福寺千体地蔵堂へ再訪した
訪問日:2016-11-03
文化の日。文化財ウィーク。昔は、この日やこの週に合わせてわざわざ出かけたりすることはなかった。
めんどくせえからである。人ごみが嫌いだからでもある。公開日に合わせて予定を組んで行列に並んでふだんは見られないものを見るのはしんどい。 通年公開されているものを自分の都合のいい時に見るほうがゆるっとしていて自分に合ってる。
しかし、人生も下り坂に入った。聞けば、国宝の通常は非公開の部分がタダで見られるという。 外観は見に行ったことがあるが、素晴らしい建物だった。あれの中が見られるのか。そうか。
では、人ごみを我慢してでも死ぬ前にいっぺん見ておこう。
6年前と同じくママチャリを漕いで、到着。地蔵堂公開に合わせて地蔵祭りが開催されており、さすがの人の数。
非公開日の平日だとほとんど訪問者がおらず、
「国宝なのに!」
と思った地蔵堂も、この行列。
賑やかだと自分の気分も高揚してくるが、人も多くスピーカーなどもあり、外観を撮るのには適さない。
りりしい顔の小学生が、正福寺千躰地蔵堂と鎌倉の円覚寺舎利殿との関係を解説していた。
しかし、午後の『雅楽・浦安の舞』のために頻繁に
「アー、アー、ただいまマイクのテスト中」
という音声に説明がさえぎられ説明がよく聞こえず、かわいそうだった。
あるおばちゃんが、
「あの子にマイクを使わせたらいいのに」
と言っていた。ほんとこれ。せめて、見守ってる大人が
「いま解説してるからマイクテストは後にして」
と本部にひとこと言えばいいだけなのに、それすらしねえ。
高校野球やらと同じ、内容云々じゃなく子供を頑張らせてニヤニヤしたい大人によるクソ慣習。毎年のルーチンワークになってて、改善とか考えもしてないんだろうけど。
さて、目当ての千躰地蔵堂内部。市のウェブサイトでは写真撮影可能かどうかわからなかったので、係の人にたずねてみた。
答えは、
「今の時間は撮影禁止。pm 3:00 ~ pm 4:00 が写真撮影許可の時間となっています」
とのことだった。
あと、写真撮影可能時間も地蔵堂内部での三脚・一脚の使用は禁止。混雑するし、傷つきやすい土間だからだ。 したがって写真撮影する気がなくても、ピンヒールやスパイクのついた靴では千躰地蔵堂の内部に入れない。
仏様の御前なので、帽子は脱ぐこと。
私は仏教徒じゃない。お堂の中の写真を撮りたいのでここへ来た。とはいえ、儀礼的信仰心を持たないわけではないので、 列にならんで帽子を脱ぎ、お賽銭をあげて、ご本尊を拝ませていただいた。
それで目を見張ったのだけど、電灯のない時代の宗教建築というものは、非常に自然光の光線の効果を計算しているのだな、ということ。
ご本尊は、夕方の写真撮影可能時間のときより、正面光になる正午前後の方がはるかに神々しく見えた。
寺社のお堂というやつが、なぜ四面すべてに出入り口があるのかずっと疑問だった。 今回の訪問で、ひとつには採光のためだったのだろうと思った。
すべての出入り口を開放すれば、時間がドンピシャなら主光源が正面光、サブ光源が左右からの側光になる。いずれも地面に反射して下から上を照らす間接照明だ。その状態で光背を背負った御仏の像が高みに浮かんで輝くのだ。非常に考えられてる。角度とか。
……などと、感心したが、ともあれ今は写真が撮れない。いつまでもお堂内部にいては迷惑なので早めに鑑賞を切り上げ退散した。
お堂の外の文化財ではない現代の厄除け小地蔵。内部に飾られてる小地蔵とはだいぶデザインが変わってしまったのだと知った。
糖質制限中だけど、まあ、お祭りだしね。ダンゴの一串くらいは。
ちなみに、正福寺のある東村山市野口町には、野口製麺所といううどん屋があり、屋台を出してうどんを振舞っていた。 それほど空腹ではなかったので買わなかったけど、具沢山で美味そうだった。多摩の糧うどんだろうか(ちがうかもしれんが)。
……が、その野口製麺所。その名の通り、正福寺と同じ東村山市野口町にある。というか、正福寺のすぐ裏、北の通りにあるのだ。
たまたま店の前を通ったら、
「通は屋台じゃなくてこっちで食べるんやで」
という感じの客で賑わっていた。
>野口製麺所 (のぐちせいめんじょ) – 東村山/うどん [食べログ] https://tabelog.com/tokyo/A1328/A132806/13016162/
さて。時刻は 13:00。写真撮影可の時間まで2時間ある。というわけで、行けたら行こうと思っていた所沢市の山口城址を見に行った。 その記事はいずれ後日。直線距離では近いのだけど、東村山と所沢の間に横たわる狭山丘陵越えをしなければならないのが大変だった。
14:00。戻ってきた。なんだかんだいって、のどかな武蔵野である。
ちょうど、雅楽と舞の実演時間だった。もちろん鑑賞する。建物にしか興味がないわけじゃない。
雅楽も何度か聞いているうちに、少しづつ、いいな…と思える部分も出てきた。しかしまだ、演奏の上手い下手がよくわからない。このような祭事で演奏されるクラスより上は全部同じに聞こえる。
東村山市無形文化財 浦安の舞。ポニテに熨斗がついてるのが可愛い。
若い女の子を堂々と撮影していいとなると、あっというまに数十枚いっちゃうね!
さすがのごったがえし。構図もへったくれもないんで、撮らせてもらえる(しかもフラッシュ可)なだけでも御の字、と割り切る。
このご本尊、寺に伝わる縁起では古代のものとされていた。まさかそんなことはあるめえ、お堂と同じく中世の作だろうという人もいたようだ。 昭和48年、修理によって、作製年が判明した。1811年。ど近世だった。佐久間象山の生まれた年だ。
おそらく関係者は落胆しただろう。寺に伝わる縁起もアテにならないもののようだ。本尊は、今は東村山市指定文化財である。
お堂の内部四面にびっしり展示されているものと思いきや、大き目のショーケース二つ。
↓こういうのを期待していたわけじゃないが(写真は牛久大仏胎内)
しかしまー、フィギュアマニアのコレクション 1,000 体を想像したら、だいたいこのくらいかなという納得感はある。
東村山市の文化財に指定されているものが約900体、未指定のものが約500体、納められているそうだ。
未指定=明治以降だろうか?未指定のものは、1970 年代までのものだという。
くらべてみると、お堂の外に並べられている現代の厄除け小地蔵はありがたみがない。かわいいけれど。……と思っていた。が。
実は、現代の厄除け小地蔵は市内の知的障害者たちの手作りだという。それを知ると、急に別角度でありがたみが沸いてきた。(この写真は 2010 年のもの)
しかしまー、やはり、目当ては建物内部だ。
実用を重んじる民家や天守や櫓なんかとはまるでちがう。さすがに宗教建築。内部でも組物を密に見せて迫力をかもしだしている。
以前、訪れたときとちがい、この日はお祭りなので解説員の解説も豊富だった。
興味深い話が聞けた。話を聞いて、なぜ千躰地蔵堂が国宝なのかもおぼろげながら見えてきた。
鎌倉時代の建立ならともかく、室町時代の建立となると、現存であっても、そうそう国宝にはならない。
こないだ訪問した観音寺(牛久市)だって、室町末期の本堂だけど国重文どころか県指定文化財だった。
解説に寄れば、この正福寺千躰地蔵堂、鎌倉にある国宝・円覚寺舎利殿と双子のように構造が同じなのだという。このことから 15 世紀の関東禅宗様の仏殿建築が高度に規格化されていたことがわかるのだ。
ちなみに円覚寺舎利殿は通常外観見学も不可で、ときどき外観公開が設定されているらしいが、撮影はいろいろややこしそうだ。
>閑古鳥旅行社 - 円覚寺舎利殿
http://www.kankodori.net/japaneseculture/treasure/106/index.html
正福寺千躰地蔵堂の本格修理は昭和8~9年であり、それ以前は田舎の埋もれた小堂だった。
そんな、埋もれた小堂だった正福寺千躰地蔵堂に転機が訪れる。関東大震災だ。地震により、円覚寺舎利殿はがっつり倒壊してしまったのだ。
外観の写真はあったが、お寺の出し惜しみ主義が仇となったか、内部の図面が残されていなかった。これは大変だ。原状回復が難しい!
当時の文化庁は八方手を尽くして、円覚寺舎利殿に似た建物を探したのだろう。あるいは、以前から円覚寺舎利殿と正福寺千躰地蔵堂の類似性は建築研究者の間では知られていたのか。そのへんはよくわからないが、ともかく、ほぼ同時代で双子のように同じ様式の建物だということで、円覚寺舎利殿の内部構造は正福寺千躰地蔵堂を元に復元されたのだ。内部的にはそっくりどころか、クローンになったと言っていい。
埋もれた小堂だった正福寺千躰地蔵堂を訪れた文化庁職員はお堂の内部にびっしり奉納された小地蔵を見て驚いた……という逸話があった。 これはつまり、円覚寺舎利殿の復元のため、正福寺千躰地蔵堂へ現地調査に来たときの話だろう。想像だが。
明治三十二年(1899)に旧国宝に指定された円覚寺舎利殿は、昭和四年(1929)に無事、復元された。昭和二十九年(1951)にはあらためて国宝に指定された。
>円覚寺舎利殿 – 文化遺産データベース
http://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/188443
一方で、円覚寺舎利殿の参考にされた正福寺千躰地蔵堂を修復して保護しようという気運も自然と高まった。 もはや 15 世紀の関東禅宗様式仏堂のベースとなった立場にある。建築だけでなく、千躰の小地蔵尊は民俗文化財として貴重だ。 埋もれた小堂にしておくのはもったいなさすぎる……。
そういうわけで、茅葺屋根はこけら葺きに戻され、円覚寺舎利殿のような花灯窓が復元された。 こんどは、円覚寺舎利殿をベースに正福寺千躰地蔵堂の外観が復元されたのだ。外観的にはそっくりどころか、クローンになったと言っていい。
そして屋根の復元修理の際に、建築年の書かれた墨書が発見された。建立は応永十四年(1407)とわかった。
一方で、円覚寺舎利殿の正確な建立年は、ついぞわからなかった。墨書は見つからなかったのだ。
そう、円覚寺自体は鎌倉時代の創建なので、円覚寺舎利殿もその時代まで遡る可能性があると考えられていたらしい(明治の国宝指定は、その考えに基づいたのではないか)。
しかし、様式が非常に似通っている正福寺千躰地蔵堂の建立が 1407 と判明した以上、円覚寺舎利殿の建立が鎌倉時代とは考えられない。 言い伝えによれば円覚寺舎利殿は太平寺の仏殿を移築したものという。それは千躰地蔵堂の建立と同じ 15 世紀のことで、墨書はそのとき失われたのだろう。
しかし、いちど国宝指定してしまったものを、あとから判明した事実で取り消されるということは、まずない。
円覚寺舎利殿は国宝でなくてはならぬ。
だとすれば、円覚寺舎利殿の参考にした正福寺千躰地蔵堂も国宝であるべきではないか。 なんといっても、正確な建立年が判明している。 いまや、15 世紀の関東禅宗様式仏堂の基準と言っていいのだから……
といった議論が交わされたのかどうか、定かではなく、これらは私の想像でしかない。 ただ、室町時代の建築にしては、私には異例に思える国宝指定には、そういう背景があったんじゃないかと想像してしまうのである。
「国宝の向こう側!(ドーン!)」←使い方ちがうよね。
そんなことを考えたのも、この正福寺千躰地蔵堂の内部公開日、ガチ勢が多かったからかもしれない。
解説員「……というわけで、倒壊した円覚寺舎利殿は正福寺千躰地蔵堂を元に復元され……」
訪問客A「円覚寺舎利殿は、ここみたいに中に入れるの?」
解説員「それが、あそこは内部非公開なんですよ。でもどこかの博物館に模型があったはずで……えーと、どこだったかな」
訪問客B「(即座に)神奈川県立博物館だね」
解説員より訪問客のほうが知識があったり。かと思えば、お堂の脇で延々と臨済宗についてあーだこーだと高度な雑談してる人がいたり。
まー、これが東京だよな……と思ったです。
庇の大きい日本建築は、夕方になると一分一秒、ちがう表情を見せる。
二回も来てしまったので、たぶんもう一度来ることはないだろうと思うけど、機会があれば春の姿が見てみたい。 そのときは野口製麺所で武蔵野うどんも食べたい。