この記事は、単独で記事を立てるには短すぎる城址訪問記のためのエントリです。ときたま更新します。
この記事内では新しく書かれたものほど、上になります。
将来的に日記から転載した部分が含まれる予定ですので、サイト内に重複する記事が出てくるかもしれません。
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- 美濃国 鵜沼城(岐阜県各務原市)
- 但馬国 伝 栃尾氏館(兵庫県養父市大屋夏海)
- 武蔵山口城(東京都東村山市)
- 平塚城(東京都北区)
- 稲付城(東京都北区)
- 増尾城(千葉県柏市)
- 松ヶ崎城(千葉県柏市)
- 岡見城(茨城県牛久市)
- 小金城(千葉県松戸市)
- 蕨城址公園(埼玉県蕨市)
わかる奴だけここに来い! 筑前国 岩屋城(福岡県太宰府市)
この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=7757#ChikuzenIwayaCastle
私は旅行なんて行き当たりばったりの方が楽しい派だったのですが、 さすがに人生も後半戦に突入すると、旅費と時間の無駄使いは避けたい。
というわけで、遠くの城に行くときは、周辺に何があるのか下調べをするようになった。
目的地は筑前大野城で、周辺には?
ほう。岩屋城というのがあるのか。ならば、百間石垣を見た帰りに寄るとしよう。
……というところまでは調べたものの、メイン目的地ではなかったので、岩屋城がどういう城かはそれ以上、調べなかった。
調べておくべきだったのだろうか。なんとも言えない。調べていれば、この城に比重を置いた計画になっていただろうし、そうなれば、その分、大野城の鑑賞がおろそかになっただろうから。
大野城の見どころ、大宰府口城門跡からずんどこ南進すると、岩屋城である。
大野城の鑑賞で足をくじいていた私は、あえて近道を使わなかった。搦手だったのだろうか。
岩屋城跡には堀切跡が残るとウィキペディアにはあるが、見逃したので、この近道とやらの方にあったのかもしれない。かもしれない、である。あくまで。
これは岩屋城の遺構ではなく、大野城の遺構であったらしい。あとから検索して知った。 こちらも、くじいた足をかばって、行かず。
検索して知ったが馬攻めは馬責めと書く方が主流で、馬を訓練する場所だそうだ。うむ。大和時代の人はサディストであった。
私のような、岩屋城がどういう城か、わからない人のために説明がある。
岩屋城は16世紀半ば(戦国時代)宝満城の支城として豊後大友氏の武将高橋鑑種によって築かれた 同12年彼は主家大友宗麟に叛き城を追われ 代わって吉弘鎮種(後の名称高橋紹運)が城主となった 紹運は天正14年(1586)九州制覇を目指す島津5万の大軍を迎え撃ち 激戦 十余日 秀吉の援軍を待たず玉砕し落城した
うむ。高橋紹運。知らん。
無知でもうしわけないし恥ずかしいと思うが、ともかく、私はこのとき、高橋紹運がどういう武将か知らなかった。だから、この城にもそれほどの興味を持たなかった。
おそらく、この説明を書いた人は、高橋紹運が何者かなんてことは説明するまでもないことだし、この城をあえて訪問する人の大半は、高橋紹運が何者か知った上で訪問しているからこそ、この説明だったのではなかろうか。
もったいぶるなって?ですよねー。そう、私は恥ずかしながら知らなかったが、この名将・高橋紹運。かは何者か。実は、立花宗茂の実父なのだった。
それを書いておいてくれよ!説明板に!
そんなわけで気を抜いていたので単なる斜面と思っていたが、ここが堀切跡なんだろうか。
本丸跡。高橋紹運が立花宗茂の実父だと知らない、この時点の私は特に感慨もなく
「ほーん。あんまり遺構、残ってないなー(ハナホジー)」
なのであった。
大野城のエントリで書いた通り、ここからの見晴らしは良い。
夜も明けぬうち、雨の中で鑑賞した水城を俯瞰して再感動。高橋紹運?知らんし。
というわけで、本気で遺構を見に行ったわけでもない人間が目を奪われるのは、土塁や堀切ではなく、このインパクトのある石碑だろう。
>岩屋城の写真一覧 | 攻城団
https://kojodan.jp/castle/487/photo/
昭和 30 年に高橋紹運の家臣の子孫が立てたものだという。
石碑というものは長期保存に向いているようで、なかなか読みづらく、史跡にあっても、研究目的で訪れたのでもなければ、ちゃんと読んだりしないものだ(個人の意見です)。
だが、こいつは読みやすい。こんだけ彫りが深ければ、あと500年は野ざらしのままでも読めそうな勢いである。 さすがに昭和の人間のやることである。 ドリル万歳。文明の利器の勝利。
くじいた足が心配だったが、こっちに高橋紹運の墓があるらしいし、下山の最短ルートだったので。
岩屋磨崖石塔群と磨崖宝塔は予定していた訪問物件だったのだけど、道の傾斜が厳しかったので、くじいた足をかばってあきらめて引き返した。
この時点でも、高橋紹運が何者か知らなかったのだけど、ともかくこれほど慕われている武将だったのだなあ、と墓前で手を合わせた。
なぜそこで検索しないのか俺。おまえのポケットに入ってるスマートなフォーンはただの文鎮か?
たぶん、地元の筑前民にとって、高橋紹運が立花宗茂の実父だってことはあたりまえすぎることで、説明しようっていう発想がなかったのではないかと思う。
もちろん、歴史マンガを描いてたくせに武将の知識がからっきしな自分にも問題があると思うが。
貴重だけど地表には遺構がない城 下総国 葛西城(東京都葛飾区)
この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=7757#KasaiCastle
で、出~~~!目に見える遺構が残ってないことで有名城址~~!!…の葛西城へ、渋々、行った。2015 の暮れのことだ。
開発によって、ガチで何も地表に残ってないのは先人たちの書いたブログや書籍で熟知していたので、ずっと行かないでいた。
が、もともと城址の少ない 23 区内だ。赤塚城、志村城、練馬城、世田谷城など、多少は遺構の残ってる目ぼしい城へ行きつくした以上、残り物に手を出すしかない。
とはいえ、行ってみたら、やはり、笑うくらい何もない、ただの公園だった。上の写真の通りだ。 葛西城址公園には説明板もなく、ここが城址であることを示してるのは、公園名だけという有様。
この木馬は、ここが城址だからだろうか。なにげに轡《くつわ》も鐙《あぶみ》もある本格派である。
説明板すらないからと、そのまま帰っては行けない。葛西城に関する説明板は道路の反対側、御殿山公園に集中している。
……と、知ったのは、ついでに隣の公園も見とくか…と道路を渡ってから。
なぜそんな、ややこしいことになってるのか、空想してみよう。
葛西城が小田原合戦ののち廃城になると、ここには青砥御殿と呼ばれる、家康・秀忠・家光が鷹狩り時に休憩や宿泊する施設があった。その御殿も 1657 には取り壊されたという。
ともあれ、ここに公園をつくる際に、「葛西城」にからめた名前を推す派と、「青砥御殿」にからめた名前を推す派がいて、
「なんだ、道路で分断されてるじゃないか。じゃあ、両者採用ということで」
みたいに和をもって貴しとなしたのではないか。想像だけど。
葛西城の別名が青砥藤綱城だったのかというと、さにあらず。鎌倉時代、ここに青砥藤綱という、なかなか上手に領民のもめごとを解決する武士の屋敷があったという言いつたえがあるからだ。
そう、物証は出てないのである!
青砥藤綱は、江戸時代には歌舞伎の題材として人気があったから、その残り香に影響を受けた地元のおじいちゃんたちが、
「証拠がないとか関係ねえ!ここに青砥藤綱の屋敷があった!武士の居館なら城!だからここは青砥藤綱城址!」
と、むりやり碑を立ててしまっちゃった感じだろうか。
そんな無茶が通るのも、この葛西城があったと場所の地表には、遺構が何も残ってないからだろう。
そう、地表には。
だが、出土品や埋没遺構であれば、葛西城は 23 区の中でも重要度の高い城となる。
出土品から、5世紀前後の古墳時代のムラがここにあったことがわかった。住居跡・井戸跡・土器などが見つかっており、土器の中には東海地方からきたものもあったという。当時の交易のようすがわかる、貴重な資料だ。
中世。秩父平氏の流れをくむ葛西氏が、ここに築城した。築城年は定かではないが、15世紀中ごろであろうと推測されている。葛西城はのちに後北条氏に奪われ、小田原合戦で廃城になるまで、後北条氏の前線の拠点として機能した。
この時代の発掘遺物は、戦国時代を知る貴重な手掛かりとして全国的に知られているそうだ。おっと、説明板め、ちょっと大きく出やがった。
説明板は青砥御殿にも軽く触れてはいたが、青砥御殿に関する発掘史料については、何も述べていない。
これらが、ぜーんぶ、土の下だったわけである。
なぜ、ここまで、地上には何も残ってないのか。説明板は教えてくれないから、自分で考えてみる。
転機は、1621 年だった。
この年に明治までの長きにわたる、利根川の東遷工事が始まったのだ。
江戸湾に注ぐ利根川の水量を減らすための工事で、結果として利根川本流は銚子の方へ向かい、目論見通り、古利根川・旧中川・綾瀬川なんかの水量は減った。しかし、一部を大日川に流すようにしたというから、大日川の水量は逆に、それまでより増したにちがいない。
大日川は、のちの江戸川である。
したがって、江戸川流域——葛西城のある青砥を含む——には、土砂がドシャドシャと溜まることになった。
江戸時代の運輸の主役は水運であり、幕府は水路をばかすか作ったから、これまた土砂の堆積に拍車をかけた。
コンクリ護岸もアメダスもない時代だから、大雨のたびに川は氾濫し、河岸の堆積地は、より堆積を重ねたことだろう。江戸時代の 270 年にわたって。
青砥御殿が取り壊されたのも、つまりは、そういう、水害に弱い土地だったということであるまいか。
御殿があった場所は、あるいは3メートル程度には丘になってて、たしかに「御殿山」だったのかもしれないが、それも土砂に埋まってしまった。
結果として、戦国の河口の城館の遺物・遺構が、良好な状態で保存されたのである。
河口の城なんて、山城にくらべて遺構が残りにくいのは考えるまでもない。
説明板が「全国的に貴重」と主張するのも、あながちフカシではなさそうだ。
……と、学術的なロマンはたっぷり地下に眠ってる城なのではあるが、やはり、現地に行って見て楽しめる城ではなかった。いたしかたないが、いたしかたない。
>葛西城 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E8%A5%BF%E5%9F%8E
ウィキペディアは城跡の保存よりも開発を優先させた為、道路建設のため城跡は一部は破壊され、道路下に埋め戻された。
と、やや批判口調であるけれど、葛西城に関して言えば、埋め戻しは妥当な処置だろう。
まさか、当時の遺構を復元するために城域を数メートル掘り下げるわけにもいくまい。そんなジメジメしてそうな城址公園はいやだ。
せっかく、確実に城址だと判明してる場所を、自治体が活用できていないな、とは思うけど。
発掘された堀(水色)と、堀があったと推定される場所(赤)の地図。
うーむなるほど、マンホールが……と、かつての水路を感じさせなくもないけど、たまたまのようでもあり、やはり、公園以外の周辺を歩いても、遺構らしきものは見つけられないのだった。
そんなこんなで、正直に言うと、行っても楽しくない城だったのだけど、この文章のためにいろいろ調べてたら、そこそこ知的好奇心が満たされて、おもいのほかの文章量になってしまった。
だから、みんな、ブログやろうぜ!(なんだ、その結論)
犬山城の目の上のたんこぶ 美濃国 鵜沼城(岐阜県各務原市)
この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=7757#Unuma_Castle
2017 年の夏の 18 きっぷ旅行も最終日。当初の予定では、この日の朝に手取川と小舞子海岸を見て、あとはぽんぽこ帰りながら、時間があったら犬山城を見よう。2010 年に行ったときはデジカメのバッテリが尽きかけてて、わずかな写真しか撮れなかったからな!であった。
が、手取川と小舞子海岸は前日にすませたので、この日はじっくり犬山城を見る時間があった。そこで、私は朝 7 時を過ぎたころ、JR高山本線ので鵜沼駅に降り立った。
そう、2010 年の私は真面目に名鉄で犬山城に行ったが、それから時が過ぎ、鵜沼駅から行ってもいいのだという知恵をつけたからだ。鵜沼駅なら、18 きっぷで行ける。よけいな出費をせずにすむ。
で、鵜沼駅で降りてみると、跨線橋の窓から見事な岩山が見えた。
思わず、ほほうとなる。信長の犬山城攻略、あるいは小牧・長久手のときには、ここに砦でもあったろうか……と想像してしまうほどの絶壁。
そして、駅前の地図で犬山城へのルートを確認しようとしたら、これだ。鵜沼城だと……?
その方向を見る。ぬう、さっきの岩山か!自分の見立てに間違いはなかった。やはり、あそこは城を築くのに適した岩山だったのだ。
>鵜沼城 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B5%9C%E6%B2%BC%E5%9F%8E
え?でもでもでも、登るの?あれを?……と、若干の憂鬱を帯びながら。
ところが、岩山は高い塀に取り囲まれ、入口と思えた門も、堅く閉ざされていたのだった。
仮に門に鍵がかかってなくても、生い茂る藪のため進めなかっただろう。この山は立ち入りを拒み、内部は放置されていた。それが地主の意向だと納得せざるをえない空気があった。
帰宅後に、ここに城山荘という旅館があり、火災を起こし、その10年後くらいに経営者が殺人事件を起こし、旅館は廃墟となったと知った(現在では建物は撤去され残っていない)。
城山荘とその事件について、私は何も知らないし、興味もないので、それ以上は調べなかった。したがって、このエントリに、ネットで検索すれば見つかること以上の情報はない。あしからず。
入れなかったのは残念であるが、同時にほっとした。登らずにすんだからだ。
碑も説明板も見当たらなかった。ならば、城周辺から遠望を撮って、おわることとしよう。
場所によっては犬山城が見える。高さによっては名鉄の鉄橋にがっつり邪魔され涙する。
ちかくのマンションの階段に登ってみる。立ち入り禁止の貼り紙はなかったので、まあ、よかろう。
ウィキペディアによると、2002年に廃墟は撤去され山自体は各務原市の所有地になっており、整備して公園化する計画が進んでいるが、麓は私有地であり立ち入りはできない。
とある。
入れないんじゃ、どうしようもない。遺構らしきものは見当たらなかった。
鵜沼城の、岩山の上から見る犬山城もきっと見事だろうにねえ。山が各務原市の所有地になって、15 年以上そのままなのは、つまりそういう、整備したくてもできない闇があるのだろう。もったいない話だ。
藤堂高虎の仲人? 但馬国 伝 栃尾氏館(兵庫県養父市大屋夏海)
この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=7757#TochioMansion
あこがれの竹田城訪問を午前中で切り上げたのは、この日の夕方、兵庫県北部に雨の予報が出ていたからだ。
竹田城もこの夏の旅行のメインディッシュだったが、この日の午後に予定していた
「兵庫県養父市大屋の、藤堂高虎ゆかりの地を訪ねる」
も同じくらい重要だったからだ。
大屋で見た田和城の素晴らしさは、すでに記事にした。ここでは、田和城の前に訪れた、伝 栃尾氏館のことを記す。
栃尾氏。秀吉の但馬攻略当時、この大屋に根を張っていた郷士らしく、竹田城陥落後は織田方についたらしい。
伝承によれば竹田城で敗れた残党が、この大屋から北西に、氷ノ山という兵庫県最高峰を越えたところにある小代谷に逃げ込み、なかば野盗と化し一揆を繰り返したという。
いやいやそれは勝者である秀吉側からの見方で、侵略者に対し地元を守るために戦った但馬のレジスタンスであるとも言える。
このへん、伝承もポジショントーク花盛りであり、正直言って、信頼できる史料にとぼしい。
広く流布している通説では、小代谷に攻め込んだ藤堂高虎は、最初は優勢だったが、小代勢の反撃にあい、この大屋の栃尾氏の館に逃げ込んだ。
そして、高虎を追ってきた小代勢を大屋で迎え撃ち、勝利し、皆殺しにした。ほうびとして、高虎はこのあたりの所領三千石を加増された。さらに栃尾氏の紹介で美含郡(現・香美町)の豪族・一色修理太夫の娘と結婚し、数年を大屋で暮らしたという。
これは藤堂家の史料がもとになってるようで、同時代の複数史料に現れるものではないらしく、ぜんぶ嘘っぱちという可能性だって、あるのだ。
ともあれ、ある程度は真実が含まれているだろうから、藤堂高虎は小代一揆制圧を命じられ、栃尾氏の協力のもと、なんとかやりとげ、出世の足掛かりをつかんだくらいまでは信用してもよさそうである。
一色修理太夫って誰やねん、室町幕府の四職の一角、一色氏と関係あるのかないのか、わからんちん (この時代の一色氏の著名な人物に修理太夫は見つけられなかった)。
……と、長々と説明したが、そんなわけで、栃尾氏館跡だと伝わる現在の養父市大屋地区、夏海の蓮華寺に行ったのだった。
バス停を間違えて夏海で降りず由良で降りてしまい、炎天下を歩く羽目になった。
やや困惑。数メートル先に蓮華寺につながる路地があった。まぎらわしいのでやめてほしい。
前置きが長かったのでとっととやろう。ここが伝 栃尾氏館こと、蓮華寺。
一の谷朝倉氏館と同じく、谷間に根差した中世城館ともいえるし、単に棚田に住んでた半農の郷士だと言えば、それまでのような気もする。左側の水路は防衛の濠として機能もしただろうが、役目の主体は棚田の導水・排水だったことだろう。
古そうな石垣で犬走りらしきものもあるが、さすがにこれを藤堂時代の遺構と思うのは夢を見すぎだろう。
養父市は地域の城館を発掘調査した資料を近年、刊行しているので、いずれ入手しようと思っている。この石垣の説明があるかないか、楽しみだ。
連格式の縄張と思えなくもない。元・棚田の可能性の方が高いとは思うが。
蓮華寺は、お寺としては密教系らしい。極彩色でいろどられた水子供養のお堂などもあった。
この写真をとったときは「ほう、これはなかなか」と思ったくらいでじっくり見なかったけど、実は市の指定文化財で、『密教浄土庭園』なのだそうだ。もっとたくさん撮っておけばよかった。
そして、同じく市の指定文化財で紅梅では日本一長寿の梅は、梅の季節ではないため存在そのものに気が付かなかった。
蓮華寺(れんげじ) | やぶ市観光協会
http://www.yabu-kankou.jp/sightseeing/rengeji
むしろ感銘を受けたのは本堂の方で、この明治~戦前っぽい雰囲気には魅了された。
本堂があるため曲輪として意識しづらいけど、たしかにそれなりの面積はある。
しかし、ここが本丸かどうかはなんともいいがたい。国土地理院の空撮地図を見ると、1970年代の写真では、この寺のよりさらに上の方に、棚田のような開墾地が見て取れた。
いま、Google Map で見ると、そのあたりは森と化している。
たかだか 50 年で、この変化だ。史跡訪問の難しさを痛感した。
遺構ゼロではない。ならば良し! 武蔵山口城(東京都東村山市)
この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=7757#musashi_yamaguchi_castle
訪問日:2016-11-03
正福寺千体地蔵堂の内部公開を見に行った日に、撮影許可時間まで2時間くらいあったので、おとなりの所沢市の武蔵山口城址を見てきました。
>山口城 (武蔵国) – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E5%9F%8E_(%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD)
山口氏の居城だから山口城。山口氏の名前の由来は、狭山の口だとかなんとか。遺構の残りは悪い。とはいえ小田原征伐後は廃城になったので、わずかでも遺構が残ってるだけめっけもん、と言うこともできる。
南側の土塁。石垣のように見えるが単なるコンクリ法面保護。鉄道のそばなのでしかたがない。
正面の大型商店のある一角がかつての本丸。その西側と南側に、かろうじて土塁が残り、碑がある。
遺構の残りが悪いことを強調されがちな城址だが、私の感想は
「おもったより残ってる。ゼロではない。じゃあ、いいじゃん、わりと」
だった。
遺構は何もなく、城址という伝承が残ってるだけの平塚城を先月に見て、その次に訪問した城址だったからかな。
説明文が消えかけ。せめて 10cm でも庇があったらとも思うが、退色は雨は関係なくて光のせいだろうか?という気も。
しかし地図や図はまだ読み取れたので、かなり助かった。
わずかに残る東側の土塁。発掘調査では幅10m高さ3mだったという。まあまあ、なかなかのクラスだ。
南側土塁には小さな社があったが完全に柵で囲まれてて近寄れなかった。由来も不明。こわい。
ここにかつての空掘があった。と知っていれば、ああ……と納得できる程度には地形に面影がある。
ウィキペディアには空掘の一部が残るとあるが、この駐車場出入り口の場所以外に、空掘跡と視認できるものは見つけられなかった。 急いでいたせいもあるが、わずかに心残り。
なお、山口氏はのちに根古屋城を築いて城機能をそちらへ移転させた。その根古屋城跡はいま、狭山湖の北西の方、山口貯水池にある。東京都水道局の敷地内のため、近づくことができない。
遠望だけ見てもしかたがないし時間もなかったので、根古屋城へは行かなかった。ほんと、文化の日くらいなんとかなりませんかねえ>東京都水道局。
食い違い参道www 平塚城(東京都北区)
この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=7757#hiratsuka_castle
訪問日:2016-09-17
>平塚城(東京都北区)の見どころ・アクセスなど歴史観光ガイド | 攻城団
https://kojodan.jp/castle/1068/
平安時代に秩父平氏の豊島近義が城館を建てたことに始まるという。後三年の役のとき源義家が駐留した。源義家は手厚いもてなしに感謝して鎧と観音像を贈った。豊島近義はその鎧を城を守る本尊として塚に埋めた。その塚が低く、平らだったから平塚城と呼ばれるようになったという。
低くて平らとなると、曲輪の先祖だったのかもなあ……という気がするけど、残念ながら城の遺構らしきものは残っていない。
あの扇のマークに弓矢かブーメランかパチンコを当てたいと思う程度にゼルダ脳。
南側は急峻な斜面になっていて、掘切だったのかもと思うけど、まあ、なんともいえない。
そもそも、その問題の塚も非公開なのだから。
おそらく発掘調査も許可してないんじゃないか?というか、神社の周囲の宅地開発で何か発掘されたということも現地説明板にはないし、本当に平塚城=平塚神社なのかというところから疑ってかかるべきなのかもしれない。
太田道灌の時代まで平塚城が存在していたのなら、確実に土塁を築いていたはず。神社の境界として土塁はあって困るものじゃないから、完全に失われてるのも変なんですよね。
あきらかに駐車スペースの都合であって、遺構じゃないのだけど、ちょっとニヤニヤしてしまった。
背水の砦…いや、ちがった。稲付城(東京都北区)
この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=7757#inetsuke_castle
訪問日:2016-09-17
タイラバヤシかヒラリンか、イチハチジュウノモークモク、ヒトツトヤッツデトッキッキ
突然、なにを言い出すのかこのブログ主は。だが、あなたは悩まないだろうか?稲付城の読み方について。
いなつき?いねつき?いなつけ?いねつけ?イナフ?Enough is enough(もうたくさん)?オーケー、わしもそう思う。
そして、ややこしいことに、ネット上の情報は「いねつけ」城と「いなつけ」城に二分されるのだ。
これで決着したようなものであるが、「現地説明板での」とまわりくどいいいかたをしたのは、「いなつけ」派を擁護できなくもないからだ。 というのも、この近辺にある稲付中学校は「いなつけちゅうがっこう」だし、稲付公園も「いなつけこうえん」だからだ。
ことの経緯はこうだ。
稲付の読みは本来、地元では「いねつけ」と呼ばれていたが、1932年(昭和7年)の官報で読みが「いなつけ」と記載されて「いなつけ」に変更された
北区立稲付中学校 – Wikipedia » 校名について
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%8C%BA%E7%AB%8B%E7%A8%B2%E4%BB%98%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1#.E6.A0.A1.E5.90.8D.E3.81.AB.E3.81.A4.E3.81.84.E3.81.A6
単に誰かが間違っただけなのに
「ひゃああ、お上にさからっちゃなんねえ、これからは「いなつけ」と呼ぶべえ」
「んだ、んだ」
であった疑惑はぬぐいきれないけれども、ともかく一定期間、公文書上で稲付は「いなつけ」と呼ばれた。
一度、公的なものになったソースは、そののち否定されても修正されても、その事実を知らない人間から何度も何度も孫引きされて、ゾンビのようにしぶとく生きのこりつづける。そのことを責めてもどうしようもない。なぜならソースは公文書なのだから。
と、いうわけで、「いなつけ」も旧町名となり、いまや公的な行政区域としての「いなつけ」はないわけだから、稲付城も本来の読みの「いねつけじょう」と呼ぶべきなのだけど、まあ、かたいこと言わんでもええやんな、稲付中学校卒業生の中には「いなつけ」の方がしっくりくるって人もいるだろうし…と思わないでもない。
さて、余計な話が長くなったが、この稲付城(現・静勝寺)は、寺に伝わるところによれば河越城を守るために太田道灌が築いた繋ぎの城だと。よくある、河岸段丘の舌状台地の先に築かれた砦だ。
稲付城は東京都北区の史跡だ。つまり荒川の右岸に存在し、対岸は埼玉だ。
南関東勢に対して、荒川を防衛線にするのなら、砦は左岸になければならないのでは……?もしや背水の陣を兵に強いるブラック城址?と、しばらく誤解してしまった。
つまり、河越城=埼玉=荒川の北、という思い込みが働いてしまったのである。
言うまでもなく、川越は江戸の北西であり、荒川の右岸に存在する。したがって、稲付城は東から来る千葉氏に対して荒川を防衛線にした、ごく普通の立地の繋ぎの城だった。もちろん、当時の荒川の流路はいまとちがうだろうし、どんな流路だったか私には、すぐにはわからないけれども、大雑把には合ってるだろう。
首都圏の地理に疎い田舎者らしい勘違いだった。
発掘調査で幅 12m もの空堀があったのが判明したらしいが、その名残が寺の周囲の道なのか、いまいちはっきりしない。
静勝寺に伝存する江戸時代の絵図には、道となった当時の堀跡の様子が描かれているらしいが、残念ながら非公開だ。 発掘調査の記録など、北区の公文書をたんねんにしらべればわかるのだろうが、少なくともネット上に、発掘調査結果の図面や『静勝寺除地検知絵図』の画像はないようである。
遺構の残りの悪い城址であり、そこまで情熱をかけて調べてる人がいないということだろうか。
都市開発の影響はあるが、それでも、砦に適した断崖絶壁の地形だったのだろうということは、うっすらわかる。
出丸をもっと丁寧に見ればよかった。増尾城(千葉県柏市)
この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=7757#masuo_castle
訪問日:2016-09-01
いちいち、説明板があったりはしなかった。
「ま、それもいいわいな。多すぎると、それはそれでうざったいもんやし。土の城の見学者として、力量を試される城なのじゃわい」
などと、ひとりごちた。
増尾城。私なぞ、つい、「ましお」と読みそうになるが「ますお」が正しい。それほど史料の残っている城ではない。
>増尾城(千葉県柏市)の見どころ・アクセスなど歴史観光ガイド | 攻城団
https://kojodan.jp/castle/784/
これは明らかに人工的な空掘だが……櫓台なのか、なんなのか、さすがに説明が欲しい。
などと、そこそこ楽しみつつ、そこそこ惜しいと思いつつ歩いてたら、とんでもない案内板に出くわした。
ここまで城址じゃなかったとおっしゃりますですかい?あたしゃ、自然地形を眺めて
「明らかに人工的な空掘だが……」
とか、ほざいていたと、おっしゃりますですかい?
そりゃねーよセニョリータ。あんまりだぜボニータ。
なにが、
「土の城の見学者として、力量を試される城なのじゃ」
だ……うっわあ恥ずかしいいいいいっ!
と、少なからず動揺しつつも、お城=天守という誤解がまかり通っているように、城址=本丸、という意味での案内板という可能性も考慮して、平静を装いつつ「←城址」の方へ向かった。
増尾城副郭。増尾城は主郭と副郭からなる単純な連郭式の縄張りの城。
さすがに、「←城址」の案内板があっただけあって、このあたりの遺構の残存度は高い。土塁・堀・腰曲輪・虎口がよく残っている。
あいかわらず、それぞれへの説明板はないけれども、副郭に大きな説明板があり、城のあらまし、構造の説明、遺構について述べられており、地形図も添えられているので、必要十分ではあった。
主郭からみた虎口。虎口の向こうに見えているのが副郭。主郭の方が狭い。
おそらく、城郭研究者が便宜上、南西(大手)から見て手前を副、奥を主としただけで、当時はどっちが主というわけでもなかったのではないかと思う。
そして、例の「←城址」の案内板は、主郭+副郭の内郭部を城址としていただけで、私が心の中でええかっこしいをしたあたりは外郭部や、内郭の斜面や、出丸なんかだったので、人口地形が含まれていたことには間違いなかった。はーやれやれ、ひと安心。
説明板の地図を見て思ったことは、説明では特筆されていないけど、北北西~東にかけて、舌状台地をほぼ半周して取り囲む、小さな出丸がたくさん設けられているところではないかと思った。
この矢印の部分。ここまで細かい出丸をビットのようにたくさん配置している城を、私は他の城で見た記憶はない。
再掲。ほら言ったじゃん!人工的な空掘だって!ああよかった、間違ってなかった。
それはそうと、この増尾城。南側の天然の濠であった大津川の分流の水質の問題なのかなんなのか、この夏おとずれた城址の中でも、とりわけヤブ蚊が多かった。しかも、たっぷり虫よけスプレーをふりかけた腕や首や顔などに、果敢にアタックを試みるタフな剛の者たち。さすがに吸血まではできなかったらしく、かゆくなることはなかったけれども、お城を眺めているあいだじゅう、耳の周りをブンブンとびまわる音に苛《さいな》まれた。
下から見たらイマイチ、登ってみてまずまず。松ヶ崎城(千葉県柏市)
この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=7757#matsugazaki_castle
訪問日:2016-09-01
>松ヶ崎城(千葉県柏市)の見どころ・アクセスなど歴史観光ガイド | 攻城団
https://kojodan.jp/castle/916/
到着してみたら、芝生にあからさまな植樹、コンクリブロック法面のコンボだったので、がっかり整備の城址公園だと思った。
空は広くて気持ちいいし、腰曲輪のような形状も確認できる。が、なんちゅーか、ゴルフ場っぽいというか。
が、上まで登ってみたら、良い感じに遺構がそのままにポンと残されていた。
破壊するでもなく、復元するでもなく、
「雑木林化してたから伐採して、簡単な説明版だけ設置したでよ」
みたいな、ゆる~い整備。悪くない。
城址として、また遺構として特筆するほどのものはさほどない。堀の深さは2m。幅7m。底から土塁頂上まで5m。中世城としては標準的なサイズだろう。
その堀もだいぶ埋まってる。公園化による破壊は少ないけれど、経年劣化は激しい。
左右の土塁がまっすぐつながらないから、喰い違い虎口とわかるが、いまや真っ直ぐ通ることができるw
ここに城ができる前から、古代人が生活していたらしい。古墳がふたつあるのが、おもしろポイントか。
古墳にだけシダが生い茂っている理由が、植えたからなのか、長年の植生変化の結果なのか、私にはわからない。
ある種のシダは土中の金属成分を好み、鉱床の目印になるという。だが、このシダがその種なのかどうかは私にはわからないし、鉱床ではなく埋葬品の金属成分が溶け出しただけでもシダが生い茂るものなのか、それも知らない。
松ヶ崎城の魅力は、この鉄塔を眺めるのに良い場所であること、と言いたい(異論は認める)
松はどうだったのかというと、看板に偽りあるとまでは言わないが、まあ、ほどほどであった。
もちろん、城が活躍していた当時は豊富な松材の産地として有名な場所だったらしい。
絵に描いたような、いかにもな沼が! 岡見城(茨城県牛久市)
この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=7757#okami_castle
訪問日:2016-08-31
案内板?そんなものは無い!
というわけで、城のある丘陵の上から向かったのに、行き過ぎて丘陵の下、南斜面の麓まで降りてしまいましたとさ。
山城を攻めるのに自転車は向かない。そのことは太田金山城まで自転車で行ったとき、いやというほど思い知ったのに(岡見城は山城ではなく丘城だけど)。
なんとか、事前にブクマした場所まで来た。だが、案内板などはない。でもここしかない!あるとしたら、この農道の先しかない!
場所はここ。
OpenStreetMap
Google ストリートビュー
岡見城(茨城県牛久市)の見どころ・アクセスなど歴史観光ガイド | 攻城団
https://kojodan.jp/castle/887/
の、すでに攻城した人のコメントにあるように、駐車場はない。石碑を見るだけなら1~2分ですむから一時停車したってよさそうだけど、すれちがえる道幅とは言い難いので、ちゃんと城址を見て回るなら、どこか駐車できる場所から歩くべきでしょうね。
牛久駅からは約4km。歩けない距離じゃないけど、そこまで苦労する価値のある城址ではない。あなたが岡見氏の子孫か熱狂的なファンなら別だが。
岡見城。鎌倉時代の御家人という由緒正しき家柄の小田氏 – Wikipediaの分家で、現在の牛久市でモウモウ、いやブイブイいってた、まあ地侍である岡見氏の居城だ。
城址を示す碑のわきに岡見氏の供養塔がたっており、案内板もないところを見ると、いまだここは子孫の土地でひっそりと守られているのかもしれない。
城址として整備されてるわけじゃないので、だいぶ経年で埋まってしまっていたが、目視ではっきりと空掘と土塁が確認できた。
土の城を見慣れてないと、これのどこが「はっきり」なのか納得できないだろうと思う。数年前の私がそうだったから。しかし、ある程度、土の城を見て回った経験に照らし合わせると、これはわりかし「はっきり」してる部類の方なのである。もっと微妙なのをたくさん見てきた結果だ。なにごとも経験である。
かつての搦手道か、あとからできた農作業用の道かはわからない。
絵に描いたような、いかにもな沼というか池のほとりに出た。釣りマッドボーイ三平なら180℃開脚ジャンプで「ウッヒョー」とスマイルフラッシュをかましてるところだ。
池のほとりの石柱によれば、池の名前は『山道池』。ただし、カミツキガメがいるそうだ。
美しい自然の風景を胸に刻んで、もと来た道を戻る。
この、竹林というのが、案内板の出ていない理由だろうか。すくなくとも、タケノコのとれる季節にはこの城を訪問するべきではなさそうだ。あらぬ疑いを受けたくなければ。李下に冠を正さず。
なお、案内板はなかったが、近くに
「近くに学校・住宅・農耕地あり。発砲危険!」
の看板はあった。
「発砲禁止」ではなく「発砲危険」であることに留意して、読者諸君におかれては攻城していただきたい。
本丸の遺構はなし。 小金城(千葉県松戸市)
この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=7757#okami_castle
訪問日:2016-08-30
台風通過の余波で、あいにく天気が悪かったです。
小金城 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%91%E5%9F%8E
首都圏近郊の宿命か、遺構の残存度は低いです。
住宅街と化した本丸。土塁なども、軽く見回した限りじゃ見つけられませんでした。
この団地の一角に記念碑があったらしいけど、見落とした。撮り逃した。
小金城 埋もれた古城
http://umoretakojo.jp/Shiro/Kantou/Chiba/Kogane/
つまりは、ちゃんと下調べせずに行った私が悪い。
まあ、こういう状態であることは、テキトーな下調べでもわかっていたことだったので、高台を降りて、確実に遺構が残っている方へ。
大谷口馬屋敷緑地。奥に土塁らしきものが見える。ちゃんと見れば遺構があったかもしれないが、時間の都合でスルーした。
広大な群郭を誇った小金城の、金杉口周辺に残っていた曲輪を城址公園化したもの。
金杉口(虎口)。屈曲はしているが、食い違い虎口ではないようだ。
発掘調査をもとに復元したらしいが、正直、再埋没しかかってるような……。
小金城(千葉県松戸市)の見どころ・アクセスなど歴史観光ガイド | 攻城団 ……に、畝掘は人為的に埋め戻されたとの記述が。マジかー。いろいろ事情はあるのかもしらんが、マジかー。
というわけで、後北条の城の研究の上で、貴重な城であるはずなのだけど、意外に感動できない城址でした。天気のせいもあったかもしれない。
「悪くない。土塁も堀も虎口も残ってる。決して悪くない城址だぞー……」
と、自分に言い聞かせるんだけど、いまいち盛り上がらないというか。
残存遺構がいまいちな城の場合、残存遺構の解説より、城主か関係者が誰で、どういう人で、なにをしたのかの説明板を充実させた方が楽しめるのかもしれないと思った。
蕨城址公園(埼玉県蕨市)
この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=7757#warabi_castle
訪問日:2016-08-06
赤山陣屋を見に行った日に、行きがけの駄賃とばかりに蕨城址も見ました。
行きがけの駄賃、というのも、遺構の残存度が低いのはわかっていたから。
で、実際に見た感想も、
「特筆すべき点がほとんど見当たらない」
でした。見出しがシンプルなのも、そういうことです。
蕨城 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%95%A8%E5%9F%8E
食い違い虎口に見えるけど、当時からそうなのか宅地化・公園化でたまたまそうなったのか判別できず。
本丸。戦国期に廃城になったあと、江戸時代は将軍家の鷹狩の休憩所となったらしい。が、その痕跡は残ってない。
公園周辺にも、かつての濠のなごりらしき水路が散見された。
河越城や岩槻城、難波田城と同じく、荒川・利根川流域に多い湿地の城だったのだなあ、とわかる。
当時の荒川の流れは今とはちがうだろうけれども、とはいえ荒川を防衛線にした城だったのであろう。
↓ツイッターより転載
鳥のフンでもかかったのか、蕨市の成年式発祥の地の像がヤバイ感じに。もちろん一番ヤバイのは大喜びで撮ってる私自身であるが。
城址南の市民会館。道の変な屈曲が濠埋め立てを思わせるけど、たまたまかもしれない。その場ではなんとも判断をくだしかねた。
岩槻城も城の遺構は少なかったけれど、さすがに城下町だけあって、武家屋敷などはちらほら市街地に残ってた。 だが、蕨市はそれも少ない。古建築として蕨市歴史民俗博物館分館があるけれど、それとて明治~戦前の建物だ。
要害通り。濠の名残だろうか。地名からかつて城域だったことがうかがえる。