百万都市・江戸の命綱である玉川上水。その起点である羽村取水口(投渡堰)を見てきた
♪はーむら、はむら はーむら取・水♪
♪はーむら はむらで 分水流♪
♪はーむら、はむら はーむら取・水♪
♪はーむら はむらで 上水道♪
♪H・A・M・U・R・A ハムラ!♪
♪H・A・M・U・R・A ハムラ!♪
♪羽村から用水引きた~い(ハムラ!)♪
♪羽村から引きた~い(ハムラ!)♪
♪引きた~い(ハムラ!)♪
開削して~ね~♪(ハムラ!)
……ふう。
これで、このエントリで言いたいことはだいたい言い終えた感もあるのだけど、蛇足ながら、もう少し続けよう。
訪問日は 2018-07-07。
七夕では、織姫と彦星が出会うためにカササギが翼を並べて橋を架けることになっている。
思うに、カササギが大きな巣を作ることを考えると、古代中国で地震か何かわからないが、カササギの巣が大量に川に流され、自然な堰(橋)を作ったことがあったのではないか。
もちろん、その堰ははかなく消え、伝説だけが残ったのではという妄想。
そんな気持ちで、七夕の日に、投渡堰なる江戸時代に考案された可動堰が、原理的には今も残る、東京都羽村市の羽村堰を見に行った、わけではない。
七夕云々は、帰宅して、いま、このエントリを書きながら思いついただけである。羽村堰を見に行った理由は、
「以前から見たかった」
からであり、前日はやや強い降雨があったので、水量が増えてて迫力があるのではないかと期待したからだ。
結論から言えば、水量はたいしたことなかったが、前から見たかったものをついに見て、私は満足した。
羽村取水口(別名:投渡堰)
駅からここまでは迷わなかったが、ここで左か右か迷った。考えるまでもなく、目の前の水路は取水された水路なのだから、取水口は上流にあるはずだ。
考えるまでもなかったのだが、考えなかった(矛盾した言い方)。が、ともかく、おそらく取水口は右だろうと思って、左に曲がった。そういう人間なのだ、私は。うっかり正規ルート選んでイベントが進んで、アイテムのとりこぼしが出たらイヤじゃん?たとえ初回プレイであってもさ。
現実も同じだ。そして現実に二週目はない。
というほど大げさなものでもなく、左にも何かあるのが見えたから、とりあえず近づいてみただけであるが。
あったのは羽村導水ポンプ所だった。ポンプ所マニアではない私には、ゴウゴウいってる水音以外には、さほど心をひかれるものはなかった。
だが、この小さな橋は良かった。立ち入り禁止じゃなかったらぜひ渡りたかった。
あとは羽村大橋が見える以外に、なにもなさそうだったので来た道を引き返した。
羽村堰休憩所に着いた。玉川兄弟の像などある。玉川上水関連史跡を検索するとやたらヒットする像である。
牛枠。水勢を削ぐための中世~近世の日本で使われた道具。個人的には、こいつの写真を撮れたのは収穫だった。
現在の羽村取水堰(投渡堰)は明治に完成したものだが、可動堰の原理は江戸時代のものと同じだという。
>羽村取水堰(投渡堰)の特徴|東京都
http://www.metro.tokyo.jp/INET/OSHIRASE/2014/11/20obc301.htm
- 川に対して直角に桁を渡して、その桁で縦杭を固定する。
- 縦杭で横杭を支え、さらに粗朶《そだ》(※木の枝など)・むしろ・砂利等を重ねて水をせき止める
- 増水時には桁を引き上げる。するとドバッと砂利だのむしろだのが流れて堰の基本構造は無事ってぇ寸法よ!
……という仕組みで、土木学会の土木遺産に認定されてもいる。
>土木学会関東支部 悠悠・土木 / 土木遺産 / 羽村取水堰(投渡堰)
https://www.jsce.or.jp/branch/kanto/04_isan/h26/h26_2.html
上記2つのどちらも、桁をつり上げて杭を外すと、粗朶・筵・砂利等が一緒に流されて堰が無くなる
とある。外した杭がどうなるのか言及してないのが非常に気になるのだが。
すごい迫力。これこそ見たいものだった!というのはさておき、外した杭がどこかにあるようには見えない。桁を引き上げれば、杭も引きあがるような仕組みには見えない。粗朶・筵・砂利等が一緒に流されて
ということは杭と一緒に流されてということなのか。下流に丸太ン棒がズンドコズンドコ濁流にのって流れていく仕組みなのか。
江戸時代ならしょうがないね、だが、現代において、それって大丈夫なの?という気がしないでもない。
まあ、問題があるならとっくに対処なされているのだろうから、心配あるまい。よけいなことは心配せず、土木遺産を鑑賞するのがよろしい。
ここから先が玉川上水。つまりは野火止用水でもある。井上陽水ではない。
基本的に利水施設って鑑賞しにくいよね。怪しい奴を近づけさせたくないってことなんだろうが。
少し下流に移動。なぜか横堤があるので、そこからの写真(パノラマ合成)
幕府は当初、堰が壊れるといけないからと、筏の通行を禁止していたらしい。が、青梅の木材もまた、江戸市民は必要としていたから、日時を決めて筏の通行が許されることになったという。
これが堰の筏通し場の跡。対岸からだと近づけそうだったけど、いろいろあってしんどかったので断念した。
かなりの暑さだったが、泳いでいる子はいなかった。変なにおいはしないけど、青梅市・羽村市を流れたあとだから、泳げるほどの水質じゃないのかもしらんね。あと、まだ夏休みじゃないし。
帰路。羽村導水路(玉川上水)と多摩川に挟まれた部分にも、今では人が住んでいる。
百万都市・江戸を支えたほどの取水口近辺に住む住民のために給水タンクと水道管が施設される現代社会。なんだかしゃくぜんとしない気持ちが残った 。
最後に。なぜ、投渡堰と呼ぶのか、検索しても見つけられませんでした。