肩の凝らない楽しさがあった三春城。城下グルメも良し
訪問日は 2018-08-22。
2018 年、夏。戊辰戦争に関連する城と史跡をめぐるというテーマで旅行をし、野宿して米沢城を見た私は、この旅行では最後の訪問先となる三春城へ向かったのでした。
三春藩。戊辰戦争では真っ先に奥州列藩同盟を抜けた、会津からえらく恨まれた藩。 ……ということは知ってても、東北のどのへんにあるのかすら知らない私でした。
>三春藩 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%98%A5%E8%97%A9
つまり戊辰では無血開城してるので、戦闘は行われていません。にもかかわらず、三春城には建物は残っておりません。門が移築で現存しておりますが、この訪問時に私はそれを知らず、見逃しました。
ともあれ、戊辰戦争に関連する城と史跡というテーマでの旅行だったので、見ないわけにはいきません。メイン目的地ではなかったので、下調べもほとんどせずに、雑に向かいました。 ま、今回は、本丸を拝んでヨシとする軽い流しの訪問でやんす、というノリで。
下調べしてなかったので、知らなかったのですが、実はレンタルサイクルがありました。 電チャリもある(1,000 円/1日)ので山間部の三春でも問題ありません。
>街なかレンタサイクル | Find!三春 【みはる観光協会~福島県三春町】
http://miharukoma.com/bicycle
そう。三春町とはどんな土地か知らず、勝手に過疎化のすすむ山間部の町と決めつけていたので、レンタルサイクルなんてやってないだろうと思い込んでたわけです。
しかし、実際には三春滝桜と言う超有名な名桜があり、三春ダムもあり、なかなかの観光地であったのでした。
そもそも三春という地名が、梅・桃・桜がいっぺんに咲く土地だからということらしく、なにその幸せそうな空間!という感じがあふれてます。
それで、これは快晴であった補正効果もあるのかもしれませんが、町全体に活気があるように見えました。
三春町が発表してる人口推移の解説を読むと、東日本大震災以降、人口流出が続き H19 から H25 にかけて 18,869 人が 17,509 人と千人以上減って……と、景気の悪い言葉がならんでいました。
http://www.town.miharu.fukushima.jp/uploaded/life/6037_24729_misc.pdf
ところが国税調査の統計を見ると三春町の人口は、H22 → H27 で 18 万人のまま、ほとんど変化はなく、むしろ 100 名ほど増えているんですね。郡山市のベッドタウンとしての伸びしろがあったようです。1998 年から三春ダムが稼働したことも、生活環境の向上に貢献したことでしょう。
そういえば JR 三春駅も、いや市街地全体が、パリッとしていました。
ちなみに乗ったバスはまっすぐ城下に向かわず、八島台から三春町運動公園を経由して城下に向かう路線でした。
遠回りなわけですが、バスからの景色を眺めることができたのは、よかったと思います。
いちおう、三春藩の石高は五万石ですが、やはり山間部であって、コメの生産量の高そうな地域ではないのですよ。
比較されがちな棚倉藩も五万石。しかし、常陸(関東)と白河(東北)を結ぶ要衝にあった棚倉とちがって、三春はその点でも弱い。決して裕福な藩ではなかったと思います。
戊辰戦争のあと、会津から「三春狐」とののしられることになる三春藩。 後世の我々は、それを知って、キツネのずる賢いイメージ、人を化かす(だます)イメージになぞらえて、そう呼んだのだな、と理解するわけですが、しかし。
戊辰以前から会津藩は単に「山奥に住んでる田舎者」の意味で三春藩の武士を「三春狐」と馬鹿にしていたという可能性が、なくもないな……と、バスの車窓から目に映る山や谷を見て考えました。
もちろん、会津の方こそ山奥の盆地なわけですが、彼らは石高の多い大藩であるというプライドがあるわけです。
三春の方は三春の方で、陸奥の中通り地方に位置し、会津よりはるかに奥州街道へのアクセスが良い、つまりは江戸に近い、つまりはつまりは自分たちの方が都会人であると思っている。 なるほど、石高ではかなわないが、秋田家は鎌倉時代から続く由緒も武功もある名門だ。家光の異母弟というだけで成り上がった武功もない会津保科家とは品格がちがうのよ、という強がりがありそうです。
こうした反目は、あえて陸奥国をバラバラにして一枚岩にさせまいとした徳川家の戦略通りだったわけですが、それがために奥州列藩同盟のもろさにつながるとは、神ならぬ徳川家康は死後、神様になりました(なんだこの文章)
ぬる湯旅館。そんな名前でアピールになるか?と思う。でも、東北のような寒い土地で温度差がありすぎると心筋梗塞が怖いから、意外とアリなのかも。
会津屋食堂。もし会津に三春屋食堂なんてあったら血を見そうだけど、三春で会津屋食堂は許されるのか。
え?着いた?待って!三春城、こんな立派な石垣が残ってる城だったっけ?思ってたんとちがう……と焦ったら
江戸時代はキツネやタヌキが住む山奥だったのでしょう。今は開発が進んでいるようです。勢いがあります
そんなに長い距離を運転したようには思えませんが、バスは三春町運動公園でしばらく休憩がありました。それからようやく城下へ。
建物は何もないけど、散策して楽しい城址。
なかなかの斜度。お城坂なる名前がついているので、こちらが江戸時代の大手道になるのでしょう。
>三春城 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%98%A5%E5%9F%8E
>三春城(福島県田村郡)の見どころ・アクセスなど、お城旅行と歴史観光ガイド | 攻城団
https://kojodan.jp/castle/383/
いつ誰が築城したのかはわかっていません。室町時代に田村義顕が本拠地を郡山から三春に移したということです。群雄割拠の中、劣勢になったため山間部の防衛にだけは都合の良い場所に逃げ込んだ、というやつでしょうか。
あんまり城の建物が残ってないわりに国の史跡に指定されてるのは、この頃の曲輪など土木構造の残存状況が良いからではないかと思います。
お城の「大手」「搦手」の概念が生じるのは江戸時代前期なので、中世山城である三春城は、どの登城道もヘアピンカーブがあります。
景色がとりたていいわけではありませんが、ほどよくひなびてて、のんびりした雰囲気がゆるくてよかったです。自動車もほとんど通らず、とても快適。
三の門跡。蚊も少なめでね。ほんと、建物はなにもないけど、ただぶらぶらと中世の造成跡を散策するのが楽しい。
なにかの木の実が大量に。最初、動物のフンかと思ってビビった。
いいよね。雰囲気がね。こういうとこ、秋や冬に行っても雰囲気がいいんだけど、写真映えという点では緑が濃い季節の方に軍配が上がる(それはおめーに、わび寂びを上手に撮る技術がないからだ、との内なる声あり)
むき出しの岩盤。あまり岩の山という感じはしなかったけど、ところどころに岩盤の露出は目立っていた。城下の桜川も奇岩が多く、実は岩の山だったのかもしれない。
ほんと、東北に石垣の城が少ないのは良質の石材が無いからだ、という謎な理論をぶちあげた昔の城郭研究者を見つけ出して、小一時間、問い詰めたい。
曲輪や切岸は良好に残ってます。堀切や竪堀は印象に残ってないけど、そもそも探そうとさえしてなかった(旅行も最終日の最後の訪問先となると、こんなもんです)。
わーいカエルー♪このあと東京に帰る予定だったから吉兆と思っ……たりはせず、ただ純粋に、わーいカエルー♪と喜んでた。ピュアおっさん。
搦手門跡。徹底的に何も残ってないし、「搦手とは……」みたいな説明もない。その潔さが良い。
石垣の残骸はあり。こういうのは冬枯れのときにこそ見に行くべきなんでしょうね。
二の丸跡。ここがいちばんなごんだ。あずまやがあるし。ボケーッと雰囲気を味わうには最高。
説明板とかもそんなに無いから、あれも撮らなきゃ、これも撮らなきゃ、と急くこともなく。あずまやで休憩したり、おいしい空気を味わったり。
ただの電柱を味わうのもよい。自由です!ここには自由があるのです!
ロータリークラブが寄贈してくれたらしい水道。『ロータリーの泉』なる名前がついててほっこり。
手彫りの力強さと、細かい説明なんざ書かないおおらかさが良い。
東屋でね。水筒の水を飲んで、ひといきついてね。天気がいいというだけで、人は簡単に幸せになれる。
本丸。とりあえず、ここを見ればヨシ、くらいの軽い気持ちで来てますんで、目標達成。
明治戊辰三春藩烈士碑。さっさと奥州列藩同盟を脱退した三春藩ですが、戦没者がゼロではなかったということなのでしょうか?
さあ、これがわからない。ネットで検索しても、誰もこの碑について説明してない。
説明板も無いからわからないって感じなんでしょうか? 一文字目が「佇」なのは読めました。おそらく三春城に関する歌碑なのだろうと推測しますけど。
基壇のようなものがあり、かつて寺社があったのか?と推測しましたが、ネット上には秋田家祖先尊霊碑を祀るための基壇という説が見つかりました。
櫓の基礎とはあきらかに違うように見えたので、「天守台跡かな?」とぬか喜びをしたりはしませんでした。
天守代用の御三階櫓が本丸下段にあったとのことですが(これは帰宅後に知ったことで、訪問時には知らずにいた情報)
「矢倉跡」と書かれた柱が倒れてる帯郭が本丸の下にあり、撮ってました。
ここが御三階櫓のあった場所なのか、それとも別なのか。そのへん、
「まあ、今回の旅行ではそこまでがんばって見なくてもええわいな」
だったので、よくわかりません。ゆるくて、ええじゃないか。
がんばった子にはごほうびがあるのです、が座右の銘ですが、この旅行でのごほうびはもうお腹いっぱいでした。二日目と三日目、がんばりすぎ。
がんばらないと言いつつ、分岐点から 20m くらいは行きつ戻りつしながら他に見るべきものがないかうろつく私。
うっかりイベントを進めてしまって、二度と入手できないアイテムを取りこぼしては困りますし(RPG脳)
しかし城域すら説明板が少なかったので、下調べしてない人間がぶらぶらっと見てみても、遺構かそうじゃないかなんて、わかるわけないのでした。
密集して植えてあった針葉樹の枯れ木。かつて防風林だったんでしょうか。
曲輪っぽく見えると言えばそうだし、明治以降の畑かもしれないし。
ヒマワリが放射性物質を吸収するって、ぼくもあなたも、みんなダマされたよね……(遠い目)。みんなって決めつけるな?ごめんちゃいな、すまんトルコ。
もう下山するつもりだったけど、二の丸散策路とあるからには行かないわけには。
かなり進んでしまったので、あまり戻りたくありません。なんとか斜面を降りて一般道に出るルートを探したい。←これが遭難する典型パターンです。わかってても、やってしまうやつ。
百均のクロックスでは難しい悪路になってきたので、靴底がガパァしてしまったトレッキングシューズに履き替え、結束バンドで靴底を締め付けました。
結局、行き止まり。無理やり道の無い崖を降りるという無謀なことはせず、もときた道を戻りました。ギリギリで理性が働いた!えらいぞわたし。
迷ったのはこのへん by Google Earth。夏だからもっと草木が深かった。降りられない高さではないと思いましたが、そのときの自分の体力とかと相談して、大事をとりました。
なかなかの斜度。搦手門跡の位置から察するに、こっちが江戸時代の搦手登城道ということになりましょうか。
斜度が三分だからではなく、ウルトラマンがいたからでもなく、ここに番所が合って、あまりに激務であったため禄が三分増しだったからだそうです。
下山。ホッとひといき。石畳は平成のものでしょうが、上品でよろしい。ほんとパリッとしてる町です。
めずらしく地元グルメを楽しみます。
旅行に行ってもケチケチ旅行で、あまりご当地の名物を食べない私ですが、このときは三春で食べてみたいものがあり、ちょうどお昼でもあったので、ご当地グルメを楽しみました。
食べてみたいものは、原則、歴史的な料理か、ほかの土地じゃあんまり食べられないものですね。
たとえば米沢牛みたいな、
「ただめったやたら美味しい肉」
とかだと、別にそんなにそそられません。
で、私が三春で食べてみたかったものとは、こちら八文字屋さんの『ほうろく焼き』でした。
三春城について下調べしなかったくせに、三春グルメは調べてたのか自分……。お城に関して不真面目だね。真剣さが足りないよ。
ほうろく焼き
つまり、60年前に
「三春には名物料理がない!なんとかしなくては!」
と考えた八文字屋の主人が郷土史を調べて、庄屋の奥様がほうろく(江戸時代日本におけるフライパンのような調理器具。普通は豆を入るための道具)で油揚げを焼いて、立ち寄った藩主にお出ししたらたいそう美味しくてお喜びあそばれたという話を見つけ出し、三春名物メニューとして売り出したら、そこそこ当たったというやつです。
たぶん、想像どおりの味だろうけど、これは食べてみなくては。 名物?なければ作ればいいじゃない!という心意気は、買って共感しなくてはなりますまい。
ほうろく焼きと蕎麦セット。ふだんの私の感覚だとこれで千二百円はちょっぴり高い。
しかし割烹のお店なので、妥当な値段なのでしょう。そもそも、心意気を買うつもりで来てるので、値段は(べらぼうじゃなきゃ)気にしません。こういうときはケチらない。
手前のはサバの切り身だったかな。さすがに厚揚げの焼いたんだけじゃ……ということでしょうか。
ところで、これは厚揚げだと思うのですが、このあたりでは油揚げと呼ぶらしいです。 三角油揚げは三春の名物です。
お味はというと、ネギが効いててたいへん美味しゅうございました。 ただまあ、思った通り想像通りの味で、完全に自宅で再現できるな…とも思いました。
厚揚げを三角形に切って、切れ込み入れてネギ入れて焼く。液体ミソかけて食べたら、まぁ近い味ですよ。 やった!マイレシピ増えた!1200 円の価値があった!……というわけで、次に三春に来てもリピートはしないだろうなと思うのですが、いっぺん食べる分には価値がある料理だと思います。
でっかい三春駒。郷土玩具。もしかして子供なら乗って遊んでいいのかな?
だいぶ護岸が進んでて、その意味では残念だけど、かつて奇岩ごろごろの素敵な河川であったことは、いまの桜川からも見てとれます。
儒学者にしてお坊さんで酒好きの(←おい、坊主ゥ!)川前紫渓なる人の寺子屋があったとのこと。
あるとき、百杯宴なる宴会を開いて、たいへん素晴らしい宴だったことから記念碑が立ちました。
それはともかく、ほんと良い川。ここで飲む酒は、さぞ美味しかったことでしょう。
矢穴も見られますから、お城の石切り場でもあったのでしょう。お城好きと遺構は引かれ合うッ!ドッギャーーーン!!!
さて、昼飯に 1200 円というと、私の旅行中食事にしては高額な方なのですが、いうても育ち盛りのアラフィフなので、厚揚げとお蕎麦じゃもちません。もひとつ、三春グルメを楽しむことにしました。
三春グルメンチ
こちらも「三春にご当地グルメを!」ということで案を練って生み出された料理です。 ピーマンの出荷量が多いので、ピーマンを使ったメンチカツを作ったんですと。 平成 24 年に誕生ということで、わりと新しい食べ物です。
これが美味しかった!値段も手ごろでボリュームもあり、いっぺんでファンになりました。次に三春に来ることがあったら、必ずリピートしますね、これは。
がっつりピーマンが入ってるので、ピーマン苦手マンには見向きもされないと思いますが、逆にピーマン好きなら鉄板だと思います。
三春ぴーまん味噌
これは自分用おみやげに買いました。写真は撮ってません。三春の家庭料理で、例の三角油揚げにつけて食べるのが一般的だとあです。
ピーマンの入った味噌、以上でも以下でもなく、おいしいと思いましたがハマるほどの味でもなかったですね。
おなかもふくれたので、駅へ戻ります。バスの時間と合わず。徒歩で。それにしても、のんびりしていて、それでいてパリッとした町です。
コインロッカーは 100 円。観光客に優しい。惚れてしまうやんかー>三春町
「愛姫ってだれ?」という伊達政宗に興味がない人なんてお呼びじゃありません!
日本各地のお城をめぐってると、やはり商店街のシャッター街化や過疎が目につくことが多いです。
でも、三春町にはなんか変な活気がありました。勢いが感じられました。
天気が快晴だったせいで 30% 増しでそういう風に見えただけかもしれませんが、
なーんか、のんびりしていて、でも楽しい、いい意味で
「へえ、こんな町があったのか!」
と感心する雰囲気があふれていました。
長旅のラストを飾る訪問先としてはこれ以上ないほど上出来な、素敵な城と城下町でした。
いつか、梅と桃と桜がいっぺんに咲く様子を見るために再訪したいですね。