大晦日、小雪が舞うなか高鍋城と延岡城を見た
大晦日。高鍋城と延岡城に連れてってもらった。
どちらも、秀吉の九州征服後に、それまでの縄張りをそれほど変えずに石垣などの織豊政権のもたらした最先端技術を部分的に取り入れた、折衷案の城ですな。
高鍋城
お正月に公園の入り口などに飾るためのものだと思う。
高鍋町 | 観光 | 舞鶴公園 | 高鍋町観光協会
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所在地:宮崎県児湯郡高鍋町上江1345
これはタコと呼ばれる土塁や土台(櫓台・天守台)などを突き固めるための道具で……ん?石臼 !?
えー、なかなかよい目的外使用のアイデアではないかと思います。
平成 19 年の台風で折れた『高鍋の大クス』の枝の一部。折れたのは枝だけで本体はまだまだ健在。っていうか枝でこの大きさゴイスー。
『高鍋の大クス』は去年、写真に撮ったから、もういいかと思ってスルーしたのだけど、あとから去年の写真を見直したら出来が悪かったので後悔した。
本丸への道。
本丸の少し手前にある、戊辰戦争で無くなった藩士たちへの慰霊碑。
高鍋藩と言えば秋月家。秋月家から米沢藩に養子に行ったのが、かの上杉鷹山。
その縁もあってでしょう。戊辰戦争のおり、米沢藩の降伏には秋月藩の説得も一役買っていたそうです。
その米沢藩が説得して仙台藩が降伏。仙台藩からの救援が絶望的になり会津藩が降伏したわけですから、 新政府に勝利をもたらしたのは宮崎だと言っても過言ではないでしょう。
……すみません過言でした。
本丸のあたりの石垣。雑草がぼうぼう。南九州ですもの。
本丸跡にはとくになにも残ってなくて(←見落としてただけかもしれない)、うっかり曲輪の全景を撮るのを忘れてしまった。
花(←なんの花かわからない。寒椿?)
蕗。食べられるものは、わかる。育ちがうかがえますな。
山頂の曲輪。室町時代くらいだと、ここが本丸だったかもしれない。 でもそのころの山城は、わりと本丸という概念自体が無かったりするんですよね。 どこが中心って考えはなくて、状況に応じていくつかの曲輪をとっかえひっかえしながら臨機応変に戦ってたらしい。山だからな。
山頂の曲輪から見た高鍋城下。
物見台跡から見た眺め。
舞鶴神社。よくある話ですが、城下の寺社が明治になってお城の跡地に移転&合祀され、高鍋城の通称であった舞鶴城にちなんで舞鶴神社になったとのこと。
子供たちが和太鼓を練習中。正月に披露予定とかかな。
石垣はかなり切込接に近い、打込接。高さはそれほど無い。
城址としてはものたりないけど、大クスなどもあり良い公園ですよ。
高鍋はお城よりも城下の街並みのほうが保存状態が良いらしいんですよね。武家屋敷とか。ただまぁ、きりがないので今回は行ってません。
顔に見える。
あ、そうそう。見た人に微妙な感動を与える高鍋大師ですが、もう町を上げての猛プッシュになってて、石像を隠してた雑木林が切り払われ、ふもとを走る国道 10 号線からも良く見え、迷わず辿り付けそうな状態になってましたよ(今年は行かなかったので売店等ができてるかどうかは知りませんが)
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